『ドミトリーともきんす』発売記念。「高野文子-八百万の視線-」

2014年12月29日 19:22
このブログのタイトルが「マはマンガのマ」なのはなぜか?ブログ始めた頃はマンガのことでなんか語りたかったからだ。見返すと今年の記事は作画の話ばっかりだなあ。
ということでマンガの記事をたまには投稿しようと。そこで、先日発売された『ドミトリーともきんす』だ。当然マトグロッソの連載は毎回読んでたし、発売日にちゃんと購入したし、1冊はサイン入りで「おいしい梨」って書いてある。でも、新しく感想を書くのはめんどくさいから、以前に書いた高野文子先生に関する原稿晒すだけ。某サークルの夏コミ新刊に寄稿したやつ丸上げ。約12000字。

1.はじめに
 マンガはなんのために読むのだろうか。物語の中の冒険や、甘い恋愛に没頭し、浮世から逃避するためか。あるいは、豪快な線の走る絵の迫力、緻密に書き込まれた絵の美しさを、芸術として鑑賞するためだろうか。マンガ家高野文子(以下:高野)は「本を読むってことは、馬鹿を治すために読むものだと思っているところがあるんですよ」[2]と語る。もちろん、この「本」という言葉の中にマンガも含めた文脈で語られた言葉だ。つまり高野は、自身の描くマンガを読んだ者の「馬鹿を治す」ように、マンガを描いているのだ。それでは高野が媒体としてマンガを選んだのは何故だろうか。マンガにしか出来ないことがあるからだ。それでは「マンガにしか出来ないこと」とは何か……
 いきなり風呂敷を広げたが、それだけ高野の使っている技術は本質的なのだ。画面構成力、コマ割り、見えているものをそのままマンガに描き出すという点において、指折りのマンガ家と言われてきたほどだ。本稿ではそれを示す言葉をまとめて高野のマンガ的「視線」の技法と呼ばせてもらおう。それを分析することはマンガの読み方、マンガのあり様、それ自体を解体する根本的な作業となる。なぜならマンガとは「コマを構成単位とする物語進行のある絵」(呉、1997)であり、ほぼ完全に「視覚」に依存した媒体だからである。高野文子はその特性を極めて高度に生かし、コントロールしている。そんな高野の「視線」について語られてきた論説を4つに分解し、そしてそれらを一つに結び合わせること、さらに言えば、論者によってそれぞれ微妙にニュアンスの変わっている呼び方に、一つの名前を付けることが本稿の目的である。

2.漫画家高野文子の登場
 さて、高野が登場したマンガ史的背景を確認しよう。1960年代以降マンガ界は「少年マンガ」「少女マンガ」「青年マンガ」「エロ劇画」など、それぞれの領域に完全に分類されていたと言って良い。特に1970年代初頭までは、ほとんどの場合、女性マンガ家の発表の場は少女向け雑誌に限定されていた。しかし、1970年代後半、所謂「花の24年組 」(注1)に代表されるように、少女マンガは文学的に、幻想的に、SFや、少年愛など、それまでの少女マンガにはあまり持ち込まれなかった高度なテーマを語るようになった。これは少女マンガという形態が確立され、物語の場としての土台が固まったからだと言えるだろう。そこから、少女マンガは少女以外にも読まれるようになり、少女マンガ家達は少年誌や青年誌にも活動を広げていったのだ。  
 当然、こうした過程の以前に、少女向け以外の場で描いていた女性マンガ家がいなかったわけではない。1960年代、『ガロ』(注2)にはつりたにくにこ、『COM』(注3)には岡田史子がいた。マニアック誌で描いていたこの二人の存在が、その後の女性マンガ家、ひいては高野が活躍する土壌となったことは間違いない。また、1975年開催のコミックマーケットを中心とした同人誌活動も無視出来ないだろう。高野自身、同人誌出身の漫画家であることは有名だ。商業誌だけでなく、マンガを発表することの出来る場が増えていったことは漫画家の作家性の強まりにも繋がっている。
 このように高野の登場する70年代後半頃には、既成のジャンルを越えようとする環境が整い始めていた。また、商業的な需要とは関係なく一人の作家として、マンガという媒体を用いて語りたいものを語るということが許容されるようになっていた。高野はその表現の独立性から、突然変異的に見えることもあるが、その土壌にはジャンルを跨いだ女性マンガ家の活躍、作家性の許容という環境が出来始めていたことは確認する必要がある。そして、ジャンルの壁を融解し、マンガにさらなる多様性をもたらす潮流の象徴、表現の革新をもたらしたマンガ家達を総称して「ニュー・ウェーブ」と呼ぶ。こうした波の中で大友克洋(以下:大友)や高野などが発見され、その挑戦がマンガに豊かな多様性をもたらした。

1.昭和24年前後に生まれた女性マンガ家の一群を指す呼称。萩尾望都、竹宮恵子、山岸凉子、大島弓子らが代表的。
2.1964年から2002年まで青林堂が刊行していた漫画雑誌。商業性よりも作家性を重視し、マニア層に支持された。
3.1967年から1973年まで発刊された漫画雑誌。「まんがエリートのためのまんが専門誌」として手塚治虫によって作られた。作家性の強さ、新人発掘の場として、漫画雑誌『ガロ』と双璧をなしていた。


3.「ニュー・ウェーブ」補足
 本稿で取り扱う「ニュー・ウェーブ」とは、1970年代後半から1980年代前半にかけてのマンガ界隈にあったムーブメントを示す言葉である。この言葉を1970年代当時から積極的に使ってきた村上知彦によると、大友、高野等 が「ニュー・ウェーブ作家」(注4)であるとされている。しかし、彼らのマンガを読んでみればわかることだが、ひとくくりに出来るような共通点を持つわけではない。あえて言うのであれば、ひとくくりに出来ないから、「ニュー・ウェーブ」という言葉によってひとくくりにされた存在であろうか。要するに、厳密な定義を持たないのだ。さらに、前章では「マンガ家達を総称して」と記したが、これも一面的な見方に過ぎない。実は、マンガ家以外の存在も「ニュー・ウェーブ」を構成する要素と言えるのだ。
 マンガを描く/マンガを読む/マンガについて語るという自意識の問題もありました。大体70年代の半ばから後半ぐらいに、マンガを描く/語る/論じるという場ができあがっていくじゃないですか。マンガを語る言説があるていど可視化されないと、ニューウェーブのような表現は出てこないわけですよ。([4],p82)
 つまり、マンガ表現が語られ、共有されていくことで、それらに自覚的な表現が使われ始めると言うのである。確かに、70年代中盤に漫画批評活動が盛んになり始め、それから数年後にニュー・ウェーブ作家達が次々と登場したという事実はある。例えば、亜庭じゅん、米澤嘉博らによるマンガ批評活動、コミックマーケットの開催は1975年前後から始まっている。また、先述した村上知彦がマンガ評論を始めたのもこの時期である。それから4年経つと、1979年には大友(注5)の初単行本『ショートピース』が刊行され、『月刊コミックアゲイン』や『マンガ奇想天外』(注6)に大友の作品が掲載されるようになった。高野の商業誌デビューも同年である。このように、マンガを語ろうとする、積極的な読者の登場は、ニュー・ウェーブの登場の土壌となっていたと見ることが出来る。ここで、注意しておきたいのは、マンガが批評され、マンガ家がそれを参照して新しい表現を模索したと決めつけている訳ではないということだ。あくまでも、マンガ表現というものが共有され始めた時代に、それに自覚的なマンガ家が登場したという事実を述べているに過ぎない。
 また、同人誌による創作活動によって、読者もマンガを描き、それを誰かに読んでもらえる存在となった。つまり、それまで分断されていたマンガ家と読者との距離は一気に接近したのである。これもやはり、積極的な読者の登場と言えるだろう。そこから高野文子のように、職業マンガ家になる者も数多く現れた。加えて、二次創作マンガで描かれるパロディや表現の模倣は、マンガの描かれ方を批評することにも繋がっていた。
 マンガを描くこと、読むこと、語ることは相互に影響を与え合った。マンガが描かれ、それを模倣したり、パロディしたりする同人誌活動があり、それらを批評する活動があった。「ニュー・ウェーブ」とはそんな時代を象徴する言葉である。その時、「ニュー・ウェーブ作家」高野の態度はどのようなものであっただろうか。荒俣宏は1982年にこんなことを記している。
 高野文子はそうした実験をするためにだけ―そうした遊戯をしてみるためにだけ、たぶん作品を描くのである。([5],p287)
 高野はマンガ表現の実験者として登場した。そして、高野が実験対象として見出していたのは「視線」のあり方であったということをこれから明らかにしたい。高野は積極的読者がいるのであれば、その「視線」もコントロールしようとしていたのだ。

4.他にさべあのま、いしいひさいち、ひさうちみちお、宮西計三、柴本ふみ、いしかわじゅん、高橋葉介、ますむらひろし、川崎ゆきお、諸星大二郎、湯田信子を挙げている。
5.大友の商業誌デビュー自体は1973年である。
6.ともに1980年前後に刊行された雑誌。マンガ作品の掲載と同時に、批評活動にも力を入れていた。『月刊コミックアゲイン』には、1979年に村上知彦によるニュー・ウェーブに関する論文が掲載されたこともある。


3.視線① 「読者の視線」
 高野はデビュー当時、林静一の影響からくる叙情画的な絵で、少女趣味的なマンガ家の一人かと思われた。しかし、その整然としたコマ割り、巧みな画面構成により、他の女性マンガ家とは一線を画す存在となっていった。ここで言う、「整然としたコマ割り」とは、荒俣宏がそれまでの形式化された少女マンガと比較して高野文子を評した言葉である。どういうことか見ていこう。【図1】は高野自身が影響を受けたと語る萩尾望都の『ポーの一族』(1972-1976)である。


【図1】萩尾望都『ポーの一族』

 1970年代の少女マンガは図のように、より重厚な心理描写を求めて心身の混ざり合った画面を作り出した。コマの枠線等もあえて無視し、ページいっぱいに美少年・美少女達が悩み苦しみ、舞い踊るような姿、ヒステリックな画面を描くことを得意としたのだ。これに対して、高野はキャラクター造形に少女マンガの面影を残すが、コマの枠線を貫くような派手な演出を排除した。むしろコマと、その連続性によって語るということを最大限に生かす技術を持っていたのだ。コマを使った画面構成、そして視線誘導の巧みさは並び立つ者がいないとさえ言われる。
 高野文子は寡作なので、一部のファンにしか知られていない。が、間違いなく日本で有数のマンガ家である。とくに画面構成のうまさはちょっと類いがないくらいだ。
 絵の持つ奥行き感を最大限に活かし、コマを覗き込む読者視線を自在にひきこみ、あたかも階段を不安定に覗くような不安を与えたり、すごく遠い距離から虫メガネほどの距離感まで近づいてゆく力動感をコマ構成で生み出したり、魔法のような視線誘導手法を駆使する。([6],73p)
 ここで述べられているシーンを実際に見ていこう。『田辺のつる』(『絶対安全剃刀』収録、1980年)では、【図2】の2コマ目で、廊下をコマの枠線とは平行にならない斜めの線で描写している。次のコマでは逆方向に斜めになっており、それを上から覗くような形になっている。このようなグラグラとした視線で、階段を幼女(実は老婆なのだが、後述)が危なっかしく降りる不安感を表現している。


【図2】『田辺のつる』(3コマ目の歪みはスキャナの都合。以降の画像も同様。)

 「すごく遠い距離から、虫メガネほどの距離感」とは、例えば『美しき町』(『棒がいっぽん』収録、1987年)で見ることが出来る。この作品は人物を遠くからの俯瞰で示した後に、その足下の草にクローズアップする【図3】等、視線が遠くから近くまで往来する描写が頻出している。


【図3】『美しき町』

 『黄色い本』(2002年)にも読み方をコントロールする技術を見ることが出来る。例えば、【図4】では3コマ目で主人公に寄ったあと、視線を切り返して窓の照り返しの構図に繋げている。


【図4】『黄色い本』

4コマ目はその絵だけでは、何が起こっているのか判別が難しい。しかし、2コマ目に4コマ目に裏返って映し出される光景を示したあと、主人公のアップによって主人公の視線方向への切り返しを暗示していることで成立させている。
 このように、高野はマンガを読むものの「視線」を意識し、コマ割り、画面構成によってどのようにマンガが読まれるかコントロールする。その技術によって、マンガの外にある「視線」、「読者の視線」を中に入れ込むのだ。

4.視点② 「三人称視点(カメラ)」
 止まった画の連続であるマンガは、ストーリーを語るために「動き」を獲得しようとしてきた。その挑戦の過程を見ることは、マンガ表現史の一つの根幹、主戦場とも言える。そこで特に注目すべきは、「動き」を獲得するための一つの方法として、映画の文法をなぞる、映画の真似事をするという手段がとられたことだ。なぜ、映画の真似事によって「動き」を獲得出来るのか。それは、読者の実写映像の記憶に依存して、動きを補完させる効果が期待出来るからである。
 マンガ読者は意識せずとも動きを補完して読んでいる。優れたマンガ家はそれを利用し、コマの連続性と、カメラワーク、そして動きの省略によって時には動画以上のスピード感を表現することも出来る。【図5】は動きの省略によってスピード感を出している例として紹介されることが多い。1コマ目で振りかぶるポーズを描き、次のコマでは殴った拳や軌道すらも描かないことで読者に動きを補完させている。


【図5】大友克洋『AKIRA』(1984-93)

 ところで、マンガにおける映画的表現の契機は1950年代辺りであると考えられている。要するに、手塚治虫(以下:手塚)である。高野の技法を語る前に、少しだけ前提となる歴史を踏まえておきたい。
 手塚がストーリーマンガの確立に一役買っており、またストーリーマンガを描くために、マンガに映画の文法を持ち込んだと論じられることは多い。その論拠となる作品が『新宝島』(1947)である。それまでのマンガは、【図6】のように平面的で奥行きが少ない、舞台劇のような画の上にキャラクターが存在するというものであった。


【図6】田河水泡『のらくろ』(1931)

『新宝島』が斬新であったのは、キャラクターを中心にした画から離れ、ロングショットや、クローズアップ、視点の切り替えを織り交ぜて、奥行きのあるマンガを描いたことである。例として、【図7】を見てもらいたい。奥から走ってくる車が、どんどんと近づいて顔のアップになっている。


【図7】手塚治虫/酒井七馬『新宝島』

 このように、画面内の奥と手前を行き来する運動によって、奥行きが表現されるようになったのだ。ただし、マンガのあらゆる分野に存在する手塚起源説的な論調は現在を以てして支配的であるが、『新宝島』における酒井七馬の貢献度の問題や、そもそも映画的手法自体『スピード太郎』(1930-1934)という前例が存在するため、ここでは、手塚も映画的手法獲得の流れの中の重要なピースである程度の認識にとどめておこう。重要なのは、高野が同じように技術の成熟に貢献しているということだ。
 さて、時代は進み、1980年頃、大友が手塚の記号的マンガの手法を解体し、同時に映画的手法をさらに押し進めた。大友は緻密な描線によって、建物を細部まで描き込んだロングショットを好んで用いている。これにより、登場人物に必要以上に感情移入させず、客観的な画面を作り上げた。このような映画的カメラワークの導入によって、マンガは多彩な物語を支える強度を獲得したと言える。また、高野文子も、1980年代に映画的技法を取り入れていることがわかる。例えば先述した『田辺のつる』の続きである【図8】のコマでは、前後のパースが強調され、歪んでいることから、描く上で広角レンズ の意識を持っていることがわかる。


【図8】『田辺のつる』

 これによって階段を下りる幼女(実は老婆、後述)の不安定さが表れている。他の作品においても、同じような効果を期待して広角レンズ(注7)的な表現が用いられている箇所が見られるのでいくつか紹介しておこう。
 『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』(1987年)は映画的であることを徹底している。高野本人が「アガサ・クリスティの『トミーとタペンス』というシリーズとヒッチコックの1950年くらいの映画がおもしろかったもんだから、それにしました。」([7],p31)と語っている通り、作品内容としても、他の高野作品と比べると珍しい、サスペンス要素やアクションの多いものになっている。それぞれのシーン毎に見ていこう。【図9】はレンズを通した歪みによって、「こわいわ」と言う台詞通りの不安感を表している。


【図9】『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』

 【図10】は黒幕との対面のシーンであるが、主人公は状況を把握しておらず、Ⅱコマ目で安心して微笑む。それとは対照的に、広角レンズを通して異様にパースの強調された身体によって、これから主人公に訪れるピンチの示唆、落ち着かない雰囲気を出している。


【図10】『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』

 『私の知ってるあの子のこと』(『棒がいっぽん』収録、1992年)は、【図11】のようにほぼ全編アップ無しの俯瞰によって描かれ、一見優等生な少女の、本当は屈折した独白を読んでいくことで、心の中を覗き込んでいるかのような感覚を与えている。


【図11】『私の知ってるあの子のこと』

 このように、あたかも演出意図を持ってカメラで撮っているかのような描写が存在する。三人称視点を通して、場に客観性を持たせ、同時に心理的効果も促す。映画的な意識を感じ取ることが出来るだろう。こういった表現がマンガ自体の文法として染み付いた現在、無意識に、特に理由なくこの効果を用いる漫画家もいるが、高野は意識的に使っている。注意しておきたいのは、こういった表現自体は特異なものではなく、高野がこの先で獲得した更なる視座の一部分に過ぎないということだ。高野の作品を映像的に捉え過ぎることは、その創造性を矮小化させることであると言っても過言ではない。それは、高野のマンガが、カメラで映し出せない世界に入りこんでいったからだ。

7.画角が広く、焦点距離が短いレンズ。遠近感の強調や、被写体の形が湾曲するという特徴を持つ。

5.視線③ 「一人称視点」
 さて、手塚が持ち込んだ映画的手法、その一貫として「同一化技法」がある。これは、竹内オサムが『手塚マンガにおける映画的手法―同一化技法について―』で提唱した用語で、作中の登場人物の視点と、読者(映画でいうカメラ)の視点を重ねることで、読者に登場人物への感情移入を促す技法を指す。つまり、映画用語で言うところの「主観ショット」の導入である。例えば、『火の鳥』を見てみよう。【図12】では火の鳥を追いかける人物が3コマ目まで描かれ、4コマ目でその視線と一致していることがわかる。


【図12】手塚治虫『火の鳥』

 高野の、特に中期の作品においては「主観ショット」が積極的に用いられている。一度登場人物の視線の動きを示してから、その見えている光景を示すという教科書通りの主観ショットは随所に見られる。例えば【図13】は黒幕との対面のシーン、気配を感じて振り返ると、銃を構えた手下がいる。


【図13】『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』

 この作品がヒッチコック作品等の影響を受けて描かれていることは前章で引用した通りである。このような主観ショットはまさに、ヒッチコックを始めとするサスペンスやホラー作品で頻繁に使われるものだ。しかし、高野文子はそのような映画の文法から逸脱し、さらに強力に登場人物の視線(主観)に、その心の中に近づいていこうとしていた。
 『田辺のつる』【図14】は、初期の傑作であり、おそらく全ての高野文子を語ろうとしてきた人が取り上げる代表作である。この作品が斬新だったのは、ボケてしまった老婆を退行した意識である幼女の姿として描いているということだ。


【図14】『田辺のつる』

つまり、読者は自分のことを幼女だと思い込んでいる「つる(82才)」の、妄想的世界からの視点で物語を追うことになる。
 それ以前にも、子猫の姿を少女として描いた大島弓子による『綿の国星』(1978年)があるということは、ほぼセットで語られているが、『田辺のつる』はそれが老婆という点や、淡々とした描写によって、どこか残酷にさえ見えるのだ。
 高野文子は画的な意味合いでの主観を越え、登場人物が見ている、認識している世界を描写する。『病気になったトモコさん』(『棒がいっぽん』収録、1987年)は、ほぼ全編一人称視点で描かれる。入院している小学生のトモコさんが、退屈しのぎに周囲を観察し、その中で連想することなど、全てのコマがトモコさんの見ている、頭の中で処理している光景そのままで描かれている。
 『バスで四時に』(『棒がいっぽん』収録、1991年)でも同様に、連想ゲーム的に記憶や妄想、現実と往来する人間の思考を表現している。【図15】はそれが顕著なシーンだ。バスに乗り何処かへ向かうマチコは非常に緊張しており、そこに辿り着きたくないと願っている。バスの中でやることがないマチコは、シュークリームの箱に目を移し、その中に何個入っているか透視(記憶によって)する。それが何個ずつ配分出来るか考えているうちに、前の座席のネジに目が行き、それを回すのにどのくらいの力が必要か考え始める。その連想が膨らんで大きな機械が表れ、それがなぜかファスナーになる。


【図15】『バスで四時に』

誰にでも思い当たるような白昼夢的連想ゲームをマンガでそのまま描いてしまっているのだ。こういった普段見過ごされがちな人間の思考にスポットライトを当てている作品は、当時新しかったどころか現在でもあまり見られない。もちろん、それを描くことの出来ることを示す単なる技量自慢ではなく、それによって目的地に向かうことから逃避しようとする気持ちが表されていることは言うまでもない。
 『るきさん』(1993年)では、「ラッパを持っているように見えたら実はじょうろだった」のような「あるあるネタ」的な発想で日常の中に潜む「視線」を切り取っている。
 『黄色い本』(1999年)では、少女の読む本の文字、それにまつわる少女の思考、あらゆる視線を使って少女の「没入」を描いている。少女の目にしている活字をコマに大きく描き出し、文字を目で追う感覚を追体験する。


【図16】『黄色い本』

内容に入り込むあまり、物語の中に入った自分の妄想にとらわれ、登場人物と対話する。あるいはその逆で登場人物が現実生活の中にまで浸食する。


【図17】『黄色い本』

 このような高野文子の技法を呉智英は「見えているものをそのまま表現することの出来る唯一の漫画家」[8]と評している。高野の技法、二つ目は登場人物の「視線」である。それも単純に瞳に映るものの記述ではない。そこから連想されるもの(物理的にはあり得なくとも)本人にはそのように見えているものまで含めて、高野文子は描いてしまうのだ。

7.視点④「あらゆる方向の視線へ」
 高野文子の「視線」は映像になれた我々の目を逆手にとり、大きなカメラでは入ることの出来ない領域、映画によって語られていない、映像によって体験したことのない視点へと広がっていく。それを斎藤環は「蚊の視点」[2]、南信長は「浮遊する視点」[9]と呼ぶ。どのようなものか見ていこう。
 『東京コロボックル』(『棒がいっぽん』収録、1993年)は、人間生活の片隅に住まう小人コロボックルの日常を描いている。高野自身「もぐるために自分が小さくなれば良いんだと気づいた」と語るように、小さな生き物の視線を獲得したことで、それまで描かれなかった角度から人間の生活を描写することに成功している。


【図18】『東京コロボックル』

 『奥村さんのお茄子』(『棒がいっぽん』収録、1994年)は一風変わったSFのような作品である。人間型に整形した生物が、先輩を救うために、「奥村フクオさんが1968年6月6日のお昼に何を食べたか」を探るという奇妙なストーリーで、発表当時から様々な解釈が飛び交う作品である。奥村さんに迫る謎の生物は自分を土鍋だと言い、救うべき先輩はしょうゆ差しだと言い、うどん型のビデオテープで6月6日の映像を再生する。
 この作品は単なる日常の動作を、かなり奇妙なアングルで描写する。例えば【図19】は、箸箱から箸をとる場面を箸の間近から捉えている。その箸の向こうに見える人物まで見えているのは良いが、どこから見た誰の視点なのか、疑問が沸かずにはいられない。先輩がしょうゆ差しであることを考えると、食卓にある他の食器等も、彼を見ていたのではないかと。


【図19】『奥村さんのお茄子』

 これらを踏まえた上で、ストーリーにあまり関係なく挿入される電化製品や、ちょっとした道端のゴミ、虫達を見ると、そこにこちらを見ている視線が存在するのではないかという感覚が沸いてくる。


【図20】『奥村さんのお茄子』

このような奇妙な「視線」の示唆を通して、「あの三秒間 自分以外の誰かを見てその誰かについて考える うどん三センチ分 ここんとこ ここんとこに あの六人がいて 一瞬一秒同時にそれやったら 奥村さんもきっとあそこで お茄子食べてたことになります」(『奥村さんのお茄子』p193)という台詞の通り、本人ですら覚えていない、覚えておく必要すら感じない些細な瞬間が、多くの命の一瞬が詰まった価値あるものとして浮かび上がってくる。高野はあらゆる事物からの視線を感じさせるような描写を手に入れた。そして、それらが見つめる先にあるのは何ということもない、日常なのだ。

6.些細な日常の描写
 『黄色い本』では、【図21】のようにあえてキャラクターの動きや、会話の主体からアングルを逸らしたコマが見られる。会話の中で、別の人物が入ってきた時にそちらに視線が行ったり、誰の顔も捉えていないコマも見られたりする。


【図21】『黄色い本』

 ここから高野は、登場人物がどのような行動をとるか、どんな感情を表現しているかということよりも、畳とちゃぶ台のある家、「そこに日常がある」ということに価値を見出して描いていることがわかる。そもそも、『黄色い本』では主人公の顔すら目鼻がついているだけの非常に素っ気ないデザインになっている。高野自身が、それを読者の視線をキャラクターに集中させないためだとしている。つまり、高野はキャラクターを描くために、あるいは、何かドラマティックな一場面を描くために作品を描いているわけではないのだ。高野は世界の中の、ある些細な空間を、時間を、ちょっとだけ切り取って見ている。夏目が「非現実的浮遊感、日常生活の価値や不安」を描き出していると指摘する通りである。
 高野の「視線」が見つめているものは、常に些細な日常である。普段の生活でいつも目にするはずが、忘れてしまいがちな視線がそこにはある。ノスタルジックな団地の生活を遠近の落差を用いながら描く、『美しき町』、入院した少女のちょっとした戯れを彼女の視点そのままに描く『病気になったトモコさん』、『チボー家の人々』を読みながら、何をするにもそれについて思いめぐらしている少女を描く『黄色い本』等、何かドラマがあるわけでもない日常を、そこにある何かの「視線」を通じて見ている。

9.まとめ:八百万の視線
 高野文子は読者の、カメラの、登場人物の、あるいはあらゆる事物の、視線と共にあり、コントロールする。マンガの内外全て、あらゆるものに視線が宿っている。まるで八百万の神様達が見ているかのように。映画や小説で、登場人物以外の視点で場面を描くとき、「神の視点」と呼ばれることがあるが、それとも少し違う。「神の視点」はある場面を説明するため、ナレーション等を入れつつ描写した時に起き上がってくる。つまり、作品成立のために存在する視点である。単なる「神の視点」ならば、あえて奇妙なアングルで描写する必要は無いだろう。しかし、高野は何かしらのドラマのために「視線」を用意しているわけではない。高野はどこかを見つめている「視線」それ自体を捉えているのだ。ある時は老婆の退行した意識に入り、ある時は虫のように浮遊して近づき、ある時は部屋の中にある食器や電化製品のようにそこに留まり、ある時は読書に没頭する少女に寄り添い、またある時は遠く高い場所から見つめている。高野は八百万の神様の「視線」で些細な日常の事柄を微細に見つめることで、そこに日常生活の価値と不安定さを見出している。その「視線」への気づきこそ高野文子作品全体を流れるテーマである。あなたのふとした日常を見直してみないかと。始めの問いに戻ろう。マンガはなんのために読むのだろうか。マンガだからこそ可能である、八百万の視線に気づくためである。



参考文献・資料
[1]高野文子全既刊と一部単行本未収録作品、1983-2014年
[2]「ユリイカ 詩と批評 特集*高野文子」2002年7月号、青土社
[3]呉智英、『現代マンガの全体像』、双葉社、1997年
[4]「伊藤剛インタビュー『新しい』の変容を探る描線-『ニューウェーブ・オブ・ニューウェーブ』とはなにか」、「マンガルカ vol.2」、2013年
[5]荒俣宏、「高野文子とコマ切れのページ」、『漫画と人生』、集英社、1982年
[6]夏目房之介、『マンガの力 成熟する戦後マンガ』、晶文社、1999年
[7]おしぐちたかし編、『おしぐちたかしインタビュー集 漫画魂』、白夜書房、2003年
[8] 呉智英、『マンガ狂につける薬 下学上達編』、メディアファクトリー、2007年
[9]『BSマンガ夜話 ニューウェーブセレクション』、カンゼン、2004年
[10]『手塚治虫文化賞10周年記念 AERA COMIC ニッポンのマンガ』朝日新聞社、2006年
[11] 南信長、『現代マンガの冒険者たち 大友克洋からオノ・ナツメまで』、NTT出版、2008年





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