作画語りてえ

2014年09月08日 22:07
はじめに
アニメを「作画」重点に観ることや、それを語ることが好きなんだけど、なかなか「ここ上手いなあ」と思いつつ、どうして上手いのかってことを具体的に語れない。知識的にも某掲示板の作画スレや、某動画サイトの作画MADで聞きかじったようなものしか持ってないので、これから勉強しますということで、作画を語るために頭を整理する記事を書いてみる。ながーくなるので、適当に画像挟まないとやってらんない。本文と関係なく適当に貼るぞ。
『101匹わんちゃん』より、有史以来最強のアニメーター、ミルト・カールによるロジャー。
『101匹わんちゃん』より、有史以来最強のアニメーター、ミルト・カールによる冒頭のロジャー。

なんで作画語らなきゃいけねーんだ
作画を語りたい理由は、好きだからなんだけど、最近アニメスタイルに載った片渕須直さんの記事が面白かった。アニメーターと心理学の研究者達で研究会を行った際に、2コマの映像と3コマの映像を見せて印象がどう変わるかという実験が行われたらしい。そこで、アニメに携わってない人達は「大して変わらん」と感じたのに対し、アニメーターさん達は「やっぱ3コマだとパラパラしてんなあ」と感じたとのことで、つまり実際に描いてる人達は「見え過ぎ」ているのだ。だから、描けない人と描ける人では、同じ作画でも「映像として見えている結果」が変わってきている可能性が高い。そこで、描けない人からの視点の提供も重要じゃないかと考えた。
アニメーションの動きについての評価は、今のところ実際に描ける人しか説得力を持ってない。描けないとわからない部分の技術が作画にはたくさんあるから。まあ、専門的な技術はみんなそうだけど。もちろん、素人で面白い作画批評をしてる人は今でもたくさんいるんだけど。
そういうのをやってみたいんだ、僕は。
『電脳コイル』OPより、日本で現役最高のアニメーターの一人井上俊之さんのパート。太ももがエロい。
『電脳コイル』OPより、日本で現役最高のアニメーターの一人井上俊之さんのパート。太ももがエロい。
井上俊之さんパートの原撮。
井上俊之さんパートの原撮。


「作画を語る」って何を語ることなのか
アニメを観ることでしか体験出来ないことは何だろう。手数の多い綺麗なキャラクターを観たかったら、イラストレーターさんが描いたものの方が一枚絵の手間ひまはかかってる。声優さんの声や、音楽が物語に乗っていて欲しいならドラマCDもある。そうやって他の媒体で体験出来る要素を削ぎ落としたとき、絵が「動いている」ことこそ、アニメーションだけが持っている唯一の魅力だと断言出来る。つまり、アニメの作画を語ることは、アニメの「動き」を語ることであって欲しい。
もちろん、アニメを観る時に音や様々な要素を無視して良いと思っているわけでもない。アニメの本当の魅力は前述したものを総合した姿にある。
また、作画を語る上で、そのカットの「演出」というものも無視出来ない。脚本の段階で作られるそのシーンまでの状況、キャラクターの心情、絵コンテで指示される画面のおおまかなあり方、レイアウトで映し出されるそのシーンの空間、その上に乗るのが「動き」だからだ。そのカットだけを抜き出して、音も全て止めて、その動きだけを評価することが多分一番純粋な作画を語ることなんだけど、そのカットがなんのために、どんな意図で描かれたのかということに踏み込む批評も必要だと思う。
実際、作画より後のセクションで効果音がつくことを意識して、利用して作画をすることの出来るアニメーターさんも存在する。つまり、作画を語ることはアニメの様々な演出を総合して語ることでもある。うええ、大変だ。
『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』より、作画史のエポックの一つ、冒頭の磯光雄さんパート。

『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』より、作画史のエポックの一つ、冒頭の磯光雄さんパート。


ところで、数年前に「アニメを、動画の枚数とか手数で褒めちゃうと、制作会社によって最初からリソースに差があるからフェアじゃないよね」って話をされたことがある。同じ頃、宣伝で「毎数何万枚!劇場クオリティ!」を謳っていたTVアニメがあって、おそらくそれを意識した発言だったのだろう。
「お金をたくさんかけて作ったアニメです。だからクオリティも高いです。」っていうのは確かに、一理ある。人を、お金をたくさん投入して、一つのセクションにより手間ひまをかければそれだけ見栄えは良くなる。でもそれは、特に日本が独自に作ってきたアニメに流れている創造力を無視している。日本のアニメが挑戦してきた「お金も時間も足りない中で、どうすればカッコよく見えるか」という課題の中で生み出されてきた技を語るためには、「ぬるぬる動くw」とか言って喜んでるようじゃいかんのだ。枚数たくさん入れたら割となんでも「ぬるぬる」しちゃうからだ。
出来るだけリソースに左右されるリッチ感を度外視して、クリエイターの創造力や、技術を語ることが、作画を語るってことだと思ってる。
『NARUTO』より、松本憲生さんパート。物凄いアクションなのに、顔だけ止めて「作画崩壊」とか言われちゃうことも多い。
『NARUTO』より、松本憲生さんパート。物凄いアクションなのに、顔だけ止めて「作画崩壊」とか言われちゃうことも多い。

動きを創造すること
アニメーションの作画は、人間が色んな物理現象や、それを超越したすごいもんを創出すること。人間が「こういう動きが出来たら良いな」と思ってそれを実現するということで言うと、ダンスや、スポーツと共通している部分もあるように感じる。

ある時、運動能力の高い芸能人として有名な武井壮氏がTVで「自分の身体を思っている通りに動かすこと」の大切さを語っていた。それを聞いて僕は真っ先に、マイケル・ジョーダンが自分のプレーについて「創造力」という言葉を使っていたのを思い出す。想像力じゃなくて”creativity”の方だったはず。
MJは単純な身体能力は勿論、「自分の思い通りに運動すること」が出来る、意識と身体との一致という点において非常に優れた選手だったと言われている。そして「創造力」はその先、どのように動かしたら何を魅せられるのかということを意識してプレーしているという意味なわけ。
ダンクシュートコンテストでフリースローラインから跳んでダンクするマイケル・ジョーダン。
ダンクシュートコンテストでフリースローラインから跳んでダンクするマイケル・ジョーダン。

記事の最初の方で、アニメを観る価値について「動きだ」って言ったけど、スポーツを見る価値も僕はそこだと思う。すげージャンプだ!カッコイイダンクだ!綺麗なフォームだ!っていう、人間がこんな物理現象を創出出来るんだっていう感動。
勿論、勝敗のメークドラマもあるけど、前提知識無しに、その瞬間だけ切り取っても美しいプレーをMJはたくさん魅せてきた。だからMJのブルズでの最後の試合は"Last Dance"って呼ばれてる。MJの魅力は人間の身体を美しくカッコよく動かしてみせる”ダンス”だってわけ。それはもう一人のMJも同じだね。

話はちょっと変わるけど、声優のモモーイが「プロ野球選手とかを呼び捨てにすることは、アニメの主人公を呼び捨てにすることに近い」というようなことを昔言っていて、納得した。自然と、スポーツ選手を自分の出来ないすごいことをやってのける別世界の人として観てるのかもしれない。

と、こんなことを考えたのも、当の武井氏が「スポーツの価値は大会や結果じゃなく選手の毎日にある」という、ある種裏側のドラマ、熱闘甲子園的なことを言っていたので、もっと原始的な快感があるはずだと思ったのが始まり。選手が走ってる、カッコイイ、その瞬間でしょ。まあ、本人も高いレベルでスポーツ経験してきたからこそ思うところがあったんだろうとは思う。当然僕も選手のそれまでの努力を含めての感動があることは共感出来るんだけど。

で、話は戻り、すごい「動き」を見るという体験は、アニメ以前の問題で、人間が欲している快感の一つなんだ。ましてや、アニメは「動き」を人間が白紙から作り上げるもの。動きに関して、最も創造的な媒体かもしれない。こういうタイミングでこんな動きをさせようっていう創造性と、実際にそれを描くことの出来る能力。その結実を観て僕は、人間が描く絵がこんな動きを作り出すことが出来るんだって気持ち良くなれる。
それをどうにかこうにか言葉にしてやりたい。というのが当面の目標になります。
作画語りてえ。
旧劇場版『新世紀エヴァンゲリオン』より、弐号機対量産機の本田雄さんパート。
旧劇場版『新世紀エヴァンゲリオン』より、弐号機対量産機の本田雄さんパート。

画像容量の都合上あんまり大きいのが貼れなくて残念。
  

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