作画語ってみた。「ざわめきを作画する」

2014年12月27日 22:11
某サークルの冬コミ新刊に寄稿した原稿。
どうせ秋頃たくさん無料で配布してるし、僕の原稿がブログに載ってるからってなんか売り上げとかに影響する訳でもなし。このサークルともとりあえずは今年でサヨナラなので、昔の原稿もぼちぼち上げていこうかなと。
「作画語りてえ」から何ヶ月か経って、作画を真面目に語ってみようと頑張ったもの。タイトルの通り「作画語ってみた」という感じ。キーワードは「WÉB系」、「フル3コマ」、「タイムライン系」辺り。アニメ批評ってものが全然作画を語ろうとしないのにも不満があったのでそんなことにも触れてみた。文字数は17000程度あるので、さあ読めって言われても無理ですよねって感じがするけど。

第1章:はじめに
 アニメ批評は、いつまでキャラクターと向き合わなければならないのだろう。いつまでアニメを「読んで」いるのだろう。大塚英志は「まんが」と「アニメ」を区別すらしなかった。東浩紀やそれに追従した多くの批評も記号や言葉尻を追い、アニメを「観て」はいなかった。アニメが真に語られるために、アニメは記号やキャラクターから一度解放されなければいけない。なぜなら、アニメをアニメ足らしめているのは「絵が動いている」ということだけだからだ。我々はアニメを語る時、物語と同時にその「動き」に目を向けなければならない。
 WEB系と呼ばれるアニメーター達がいる。彼らはネット時代を象徴するように、それまでにはない新しい作画への思想と態度を持って2000年代中盤から登場した。彼らはキャラクターの身体も奔放に崩し、とにかくアニメで動かすことを喜んでいた。しかし、今、そのような姿勢は時代に逆行している。いや、時代に淘汰されようとしていると言っても良い。アニメーターの動かしたいという思いと、今の日本のアニメ視聴者が求めていることとは食い違ってしまっているのだ。なぜなら日本のアニメが、キャラクターを見せるためのものとして成長してきたからだ。勿論、日本のアニメも「動き」を喜ぶ作り手と視聴者がいて、様々な「動き」を手に入れようとしてきた。そして、それに憧れて現れたWEB系は、その作画に独特の「ざわめき」を持っていた。しかし、その「ざわめき」は時にキャラクターを邪魔するノイズとして拒絶される。こうして「動き」を見ることが出来なくなった、あるいは「ざわめき」を受け取ることの出来ないアニメ視聴者の存在が浮き彫りになったのである。よって本稿は「キャラクター商品としてのアニメ、またその視聴者」と、「動きを見せる媒体としてのアニメ、またその作り手」という対立軸を設定し、アニメを描く者が「動き」に純化していくことへの擁護を目的とする。

第2章:前提としている作画史概観
 この章では、本稿で前提としている作画史観を記述する。尚、作画史を体系的に記した論文は存在しないため、既にある様々なアニメ史と、インタビュー等から読むことの出来るアニメーターの証言を元にしている。また、多くの人名が記されているが、本論に深く関わりのある人物のみ、脚注で紹介することとする。
 日本のTVアニメは「動かないキャラクター映像」として始まった。『鉄腕アトム』(1963)である。手塚治虫は一週間に一話放映するアニメの制作費と作業時間を減らすために、とにかく動画枚数を減らし、止め絵でなんとか時間を繋ごうとした。こういった「動かさないアニメ」はリミテッドアニメーション(5章脚注参照)と呼ばれ、現在まで日本のTVアニメほぼ全てを貫いているアニメの作り方だ。しかし、日本のアニメが「動き」を放棄していた訳ではない。国産初の長編アニメーション『白蛇伝』(1958)を作った東映動画は、東洋のディズニーとなることを目指し、フルアニメーション(5章脚注参照)で動かすことに信念を持っていた。そこでは宮崎駿や芝山努などの後の大監督や、大塚康生がアニメーターとして活躍しており、彼らが作り出す「動き」は決してディズニーに引けを取る物ではなかった。高畑勲の事実上初監督作品でもある『太陽の王子ホルスの冒険』(1967)はその集大成として見ることが出来る。
 日本のリミテッドアニメーションは60年代後半に入ると、劇画の流行に乗り、止め絵に大量の線を描き込むことで迫力のあるアニメを作るようになった。そこで『巨人の星』(1968)や『アタックNO.1』(1968)、『タイガーマスク』(1969)等の名作が生まれ、さらにリミテッドの方法論を発明し、駆使する出崎統等の大監督が活躍するようになった。
 1970年代には、日本のキャラクターアニメの地位を確固たるものにする、ある礎が築かれた。それが高畑勲・宮崎駿らによる『アルプスの少女ハイジ』(1974)である。この作品は、日本でいち早くキャラクターデザインという役職や、レイアウトシステム(注1)を導入し、シリーズ全体のクオリティを均質に保つことに成功した。そして、そこで養われた方法論・技術が、やがて世界中で愛される「ジブリ」へと実を結ぶことになるのである。
 一方で、1970年代後半には金田伊功が現れた。奇抜なパースやポーズで、少ない動画枚数でもダイナミックにアクションしているように見せるその作画は人気を博し、「金田フォロワー」とも呼ばれる金田の様式を模倣するアニメーターの一群を生み出した。1980年代には「金田フォロワー」による多数の「暴走作画」が見られ、時にはストーリー上の流れも無視するようなアクション過多な作画でマニアを喜ばせた。特に、山下将仁による『うる星やつら』での金田系作画は、本来「ラムちゃん」という人気ヒロインを擁する、キャラクター中心の作品(今で言う萌えアニメ)として見ていたマニアに、アニメの「動き」を知らしめることとなった。さらにこの時期は板野一郎の台頭も無視出来ない。板野による緻密なカメラワークと作画を組み合わせた縦横無尽のミサイルは「板野サーカス」と呼ばれた。そう、この時アニメはキャラクター以外にも主役を持つことが出来るようになっていたのである。むしろ「板野サーカス」に代表されるミサイルやメカ、それが飛び散る大爆発こそ、アニメーターの真価が発揮されるアニメの醍醐味ですらあった。
 1980年代中盤からはOVAの流行もあり、なかむらたかしを中心に、細部へのこだわりによって密度を高めるリアル志向が見られるようになった。そうして『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(1987)や『AKIRA』(1989)が生まれ、超高密度ながらもよく動く名作として、現在まで親しまれている。そのようなリアルな作画を支えるための理屈に沿った画面上の空間作りと、演出家による画面の効率的な管理を目的として、押井守が積極的にレイアウトシステムの導入を図った。これが現在のアニメ制作のスタンダードとなっている。そんな中、うつのみや理(脚注2)や磯光雄(脚注3)が、線や動画枚数の密度ではなく、質感や重量感を伝える真の意味でのリアルな「動き」を志向していった。うつのみや理による時間感覚を重視した作画は、アニメの「リアル」の基準を一変させたとまで言われている。また、磯が行った「フル3コマ」(5章参照)という作画方法は、その後登場する「動かしたがりアニメーター」が好んで用いる作画法として定着する。本論の中心となるWEB系がまさにそれだ。
 1990年代にはそれまでの様々な作画技術を受けてさらに実験的なアニメーターが台頭する。彼らの挑戦の結集として『THE八犬伝』(1990)、『THE 八犬伝 〜新章〜』(1993)が生まれ、大平晋也や湯浅政明、橋本晋司、田辺修等のキャラクターデザインを無視した極端な「動き」のリアリズムが伝説的作画となり、また批判の対象ともなった。一方で『クレヨンしんちゃん』(1992)は湯浅政明による挑戦的な作画が一般の視聴者にも受け入れられることを示した。
 1990年代後半から2000年代にかけて、日本のアニメは作画より後のセクション、仕上げや撮影処理などをデジタル制作に移行した。同時に、CGの導入等によりCGで作られたオブジェクトや背景と、手描きで描かれたキャラクターが同居する画面に立ち向かうこととなる。この時期からTVアニメ、特に深夜帯アニメの本数は一気に増え、乱造とも言える状態でスケジュールを圧迫し、その平均的な質を低下させていく。新たな環境で試行錯誤が繰り返される、まさに玉石混淆の状況となった。ここで一躍スターとなったのが松本憲生(注4)だ。松本は担当した回の原画を一人でほとんど描いてしまうような手の速さで高密度のアクションを描き、量と質の両方でTVアニメのクオリティを支えた。その「動き」は、うつのみや的なリアリズムを継承しながら、磯の「フル3コマ」も取り入れ、派手で見栄えのするアクションとなり、現在でも多くの若いアニメーターが模倣する対象となっている。
 同時に、ネットの発達により2ちゃんねる等のネット掲示板から、アニメ視聴者の声が見えるようになった。そしてまとめブログが現れ、その声を増幅し、一つの大きな声として発信していった。また、SNSの登場によってその傾向はさらに強まり、作り手と視聴者の距離は一層近づいた。その中で登場したのがWEB系であった。
 このように、90年代まで、日本の「動かないアニメ」は新たな才能の登場と実験を繰り返して「動き」においてガラパゴス的進化を遂げてきたのである。リミテッドな方法論があったからこそ、多様な「動き」を手に入れることが出来たとも言える。そして、時代毎の新しい「動き」は受け入れられてきた。と同時に、視聴者との食い違いは確実にあったはずである。それが顕著に見え始めたのが『THE 八犬伝』や、2000年代以降の「作画崩壊」(注5)という言葉だろう。時には「動き」を優先することが受け入れられてきたように見えたが、それ以上にキャラクターを映し出すものとしてのアニメが存在感を大きくしていたのである。WEB系を語る前に、現在のアニメ視聴者が求めているものを考えてみよう。


脚注
1.原画の前に、その設計図となるレイアウトを描き、それを元にアニメを作る体制のこと。高畑勲、宮崎駿らによる『アルプスの少女ハイジ』(1974)で初めて本格的に導入されたとされる。ちなみに、宮崎駿は『アルプスの少女ハイジ』で全話全カットのレイアウトを描いている。
2.1959年生のアニメーター。『御先祖様万々歳!』で行った様々な革新的作画は、アニメーターの間でセンセーションを巻き起こしたとされる。
3.1966年生のアニメーター。『MOBILE SUIT GUNDAM 0080 ポケットの中の戦争』1話で脚光を浴びる。『新世紀エヴァンゲリオン』13話脚本等、幅広く活躍。『電脳コイル』で初監督。
4.1980年代後半から活躍するアニメーター。『逮捕しちゃうぞ』39話で、多くの原画を一人で描き、そのクオリティの高さから注目された。『NARUTO』30話、133話で見せたアクションが特に有名。
5.作画のクオリティが著しく低い状態を指す言葉。『夜明け前より瑠璃色な〜Crescent Love〜』が有名。



第3章:CGと総作監制から
 現在のアニメ視聴者がアニメに要求しているものは何か。その結果を示す二つの事例を見ていこう。一つ目は総作画監督(以下:総作監)という存在だ。TVシリーズではここ10年の内に定着した比較的新しい役職(注6)だ。2014年現在のアニメ制作における作画作業の行程を踏まえつつ、総作監について説明しよう(尚、本稿はアニメ制作の入門書を目指す物ではないため、必要のない部分は省略する)。
 まず、脚本、絵コンテがあり、原画マンが絵コンテからさらに背景やカメラの画角、キャラクターの移動幅等も考慮しながら具体的にそのカットの設計図を描き起こす。これがレイアウトだ。このレイアウトを一度演出や作画監督(以下:作監)がチェックし、修正を加える。これを受けて原画マンが原画を描き、必要であればそこにも作監の修正が加えられる。作監の仕事は主にこの修正作業になる。特に作監に求められているのは、実力も様々な原画マン毎にバラつきの出る原画の水準を上げること、そしてキャラクターの絵柄に統一感を持たせるということだ。各話毎に作監がおり、その担当する回の統一感、クオリティを保つことが作監の仕事という訳だ。ここで登場するのが総作監である。各話の作画班、作監毎にバラつきの出るキャラクターに、シリーズ全体で統一感を持たせるため修正を行うのが総作監だ。そのため、キャラクターデザインをしたアニメーターが総作監となっている場合も多い。
 さて、近年のTVアニメのエンディングクレジットを見ていると、10年前と比べてある変化が起こっていることに気づく。それは原画マンや作監の多さ、役職の煩雑さだ。特にシリーズの終盤になると原画マンは第一原画、第二原画合計で30名を超え(下請けが会社単位でクレジットされているため実際の数はさらに多い)、作監が10名近く、作監補佐あるいは作監協力という役職も加わる。『魔法科高校の劣等生』(2014)においては「総総作画監督」まで現れてしまった。作監の役割は、一人または少ない人数で行うことで絵柄の統一感を保持することも重要であった。しかし、それを10名近く動員し、さらに間に合わないカットは手の空いている原画マンが作監補佐という形で修正作業に当たるのである。これでは絵柄の統一も何もない。それを最終的には総作監が修正することで現在のアニメはクオリティを保っている。また、総作監的立場のアニメーターを、特にキャラクターの修正に特化したキャラクター監修という役職に置く場合も見られる。
 このように、総作監は作画スタッフの中でも最も責任ある立場にあるため、特に優秀で信頼のおけるアニメーターが担当する場合が多い。つまり、優秀なアニメーター程、チェック作業や修正に追われることになるのだ。これが総作監制である。重点を置かれているのが、作品の画的なクオリティ維持、キャラクターの安定感であることはわかるだろう。また、あえて総作監を置かないことで、回毎のクリエイターの個性を優先した『スペース☆ダンディ』(2014)は逆説的にそのことの証左となっている。
 もう一つは3DCGモデルを使ったキャラクター表現の成功だ。これによって日本のアニメが一つの転換期を向かえているとさえ考えられる。キャラクター他、作品中の動く物体を全て、2Dアニメ風(セルルックとも呼ばれる)の処理を施した3DCGによって表現した『蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ-』(2013)のヒット、『ラブライブ!』(2013)や『アイカツ!』(2012-)等に見られるCGモデルを使ったダンスシーンの人気は象徴的だ。これまで、CGの制作費が高額だったこともあり、日本制作の3DCGキャラクターアニメがヒットした例は少なく、また手描きのアニメに慣れた視聴者にとって、3DCGのキャラクターは少なからず違和感を与える物であった。しかし、2Dアニメ風の処理によって、ようやく日本のアニメにおいても3DCGキャラクターへの蕁麻疹をなくすことが出来たようだ。特に、その商業的成功によって「CGに萌えることが出来る」ということが示されたのは大きい。この「萌えることの出来るCG」の安定感こそが求められているのだ。画期的な映像表現、高度な「動き」など無くて良い、それなりに可愛くて、それなりに動いていれば良い。そんな声が実際に存在すると証明することも容易いが、アニメーター小松田大全のインタビューを読むと、少なくともアニメの作り手は既にその声を受け取っているとわかる。

小松田: 見たこともないような、ものすごい画面をゼロから生み出す可能性は、CGよりも作画の方があると思うんです。(中略)一方で、平均点の75点をコンスタントに要求されるような普通のTVシリーズの場合、75点の画面を安定して生産できるのは、やっぱりCGだなと思いますね。
「アニメーター小松田大全が語る『蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ-』が革命したもの」『アニメスタイル005』より


 この二つからわかることはなにか。アニメ制作側が躍起になっていること、それはキャラクターの同一性、安定感を保つということだ。そしてこれを極端に言えば「作画崩壊」を防ぐということになるだろう。
 この「作画崩壊」という言葉が2000年代のアニメにはつきまとっていた。もちろん「作画崩壊」と言えるような状態はそれ以前の作品にも度々あった。しかし、ネットを使った交流によって、その状態に名前がつけられたことで、より明確に認識されるようになったのだ。急速にアニメ制作本数が増え、視聴者の目が肥える反面、質が不安定であったこともこの言葉が目立つようになった原因と言える。そしてこの言葉が時としてアニメーターの技や、工夫をも批判していくことになったのである。図1は『NARUTO』30話の松本憲生パートだ。


【図 1】『NARUTO』30話の松本憲生パート
 引きのショットを使いながら、全身入った長尺の格闘を見せる、アニメ史に残る屈指のアクションシーンである。しかし、このシーンは図の1コマだけを抜き取って「作画崩壊」として紹介されてしまった。「動き」を見せるためのアクションシーンであれば、流れの中で必要な絵の崩しはあるはずだ。実際このカットは、首をぐるりと回して火を噴くアクションに、軽快な勢いをつけることに成功している。ところが、「動き」には目もくれず、絵の崩れ、普段のキャラクターと似ていない部分を目敏く見つける視聴態度は確かに存在した。この現象は『魔法少女リリカルなのはA's』(2005)7話、『創世のアクエリオン』(2005)19話、『SAMURAI7』(2006)7話、『天元突破グレンラガン』(2007)4話等でも見られた。こういった事例が積み重なるうちに、いつの間にかアニメを見る側だけでなく、作る側の意識も変えていったのかもしれない。2000年代に見られたクオリティの不安定さを克服しようとする動き、これがアニメの現状だ。
 当然、近年のアニメ視聴者の態度に全ての原因があるとは考えられない。むしろ絵柄や、キャラクターの同一性を確保しようとする努力は、「動き」の獲得と並行して進んできた。2章で述べた『アルプスの少女ハイジ』の成功がまさにそれだ。長い歴史を通して、多くの視聴者はキャラクターが均質に保たれていることを常に望んできたし、アニメを作る者もそれを一つの課題としてきた。そして、この章で述べた二つのことから、その傾向はさらに強まっていると考えられる。そんな中、30話の松本憲生パートに憧れアニメーターを志した者も存在した。それがWEB系と呼ばれるアニメーターの一人、山下清悟(注7)だ。

6.総作画監督という役職は1980年代から見られるし、劇場版ではTVアニメより早く定着している。また仕事自体はシリーズ全体の「作画監督」として表記されていた役職とほぼ同じと考えられるが、本稿では「総作画監督」と名前が付いたことでより専門化されたと認識している。
7.1987年生。WEB系アニメーターの一人。2007年に商業作品デビュー。『NARUTO 疾風伝』、『鉄腕バーディー DECODE:02』等で活躍。



第4章:WEB系って誰だよ
 前置きが長くなったが、WEB系とは何者かということを説明しよう。名前の通り、インターネット上で注目を集めてから、商業作品デビューした経歴を持つアニメーターを指すことが多い。最初のWEB系アニメーターとされる沓名健一を例にとってみよう。沓名はHP上に自身が描いたアニメーションをgifで公開していたところ、業界人の目に止まりスカウトされ『鋼の錬金術士』(2003)で原画デビューした。このように、アマチュアとしてHP上に自主制作のアニメを公開し、それが注目され、商業作品のアニメーターとして抜擢されたのがWEB系だ(ある意味で、庵野秀明の経歴はかなりWEB系と近しい)。沓名に続いてりょーちも(注8)や、山下清悟等が、2000年代にデビューした。
 WEB系の多くは、ヘッドハンティングされてデビューするため、動画マンとしての下積み経験を持たず、いきなり原画を描くことになる。また、従来の作画用紙を使った作画ではなく、PC上でのデジタル作画を中心に作業する。よって、デジタルでの自主制作の経験を生かして、撮影処理や、彩色に精通している場合も多い。また、デジタル作画で最も影響のある特徴は、描いた動きをPC上で再生し、その場でチェックし、手直しながら作画できるということである。これによってもたらされる現象を語っているりょーちものインタビューを抜粋する。

りょーちも:新人が紙の作画から始めると、動きについて考える前に、画の問題にぶつかってしまうんですね。今の通常の商業アニメの教育方針だと、新人は動画から学んでいくから、まずは綺麗に線が描けないといけない。そして、次に原画に進むと、原画らしいポージングとか、画の巧さが問われる。そこまで全てこなして、ようやく動きに意識が向くんです。これはこれで問題で、つまり、動きが描けなくても、画が上手いというだけでアニメーターとして成立してしまうんですよ。一方で、デジタルだとクイックアクションレコーダーを常に持って描くことになるので、その手順の逆ができる。つまり、動きから学ぶことができるんです。ラフな画のまま動かして、いい感じの動きができたから、それを整えていく。現状とは逆の手順で勧められるので、動きを優先して勉強できるというメリットがあります。
「りょーちもが挑む デジタル作画とその可能性」『アニメスタイル005』より

 以上のことからWEB系の特徴を述べると、「下積みを経験することで得られる画を整える能力の向上が少なく、作画以外のセクションを生かす、あるいは自分でこなすことが出来、動き先行の作画をする」ということだ。付け加えるなら、WEB系は「動かしたがりアニメーター」が多く、時には他から浮いてしまうような主張の激しい作画をすることも特徴である。なぜ浮いてしまうのか。それは普段アニメ視聴者が見ているアニメとは違った方法で作画されているからである。WEB系と従来の作画がどのように違うのか、さらに詳しく見ていこう。

8.1979年生。WEB系アニメーターの一人。『BECK』監督の小林治からスカウトされ、同作品でデビュー。『鉄腕バーディー DECODE』シリーズ等で活躍。『夜桜四重奏』シリーズの監督を務める。アニメ制作にデジタル作画環境を整えるため尽力している。

第5章:WEB系のデジタル作画
 WEB系はロトスコープ(注9)や、「フル3コマ」作画等を好んで用いる(WEB系の作画全てで用いられている訳ではないことを注意しておきたい)。「フル3コマ」とは、正式な専門用語ではなく、磯光雄が自分の作画法を指して使った造語である。その意味は、3コマ送り(秒間24コマ中8コマの作画)でフルアニメーション(注10)(以下:フルアニメ)することである。とこれだけではまだわからないので、その意味を読み取ることの出来るインタビューを引用する。

小黒:ここで、フル3コマという事をもう少し、このインタビューを読んでいる人達にも分かり易くしたいんですけれど、3コマの動きを、中割りなしで、全部原画で描くという事ですよね。そうやると、中割りのある2コマよりも、1秒当たりの原画の枚数は多くなる。
井上:そうだね。動きの密度という点で言うと、多分、最高のものだろうね。2コマで中割りなし、というのは、ちょっと動きをコントロールしにくいし、それで描ける動きは、フル3コマとそんなに差がない。1コマフルという事も原理的には考えられるけれども、それは実際には、自分で自分の原画の中を割るだけの作業になってしまうだろうから、意味がないし、そもそもそんなにたくさん描けないし、スケジュールもない。だから、3コマおきに、全部画をコントロールすれば、ほぼ、描きたい動きの全てが描けるだろうね。
「アニメの作画を語ろう:animator interview井上俊之」より


 つまり、24コマ中8コマ全て原画で動かすのが「フル3コマ」だ。日本の商業作品では動きの要所となる絵(ポーズ)を飛び飛びで原画マンが描き、動画マンがその間を埋める「ポーズ・トゥー・ポーズ」という手法がとられてきた。金田伊功の大胆なポーズを挟んだ作画はまさにその極致だろう。これに対して「フル3コマ」はパラパラマンガのように、動きを順番に描く「ストレート・アヘッド」で作画していく。これが何故画期的なのか、アニメーターではない我々にとってはイメージし辛いところがあるが、図2の簡易的なタイムシートを参考にしよう。



【図 2】1秒24コマのタイムシート(12コマ目まで)2014年10月16日筆者作成
 中割り(注11)の役割は、「動き」を滑らかにするために軌道を埋めることなので、何枚中割りがあったところで次の新しいポーズや動きの基点を描くことはないというところがポイントだ。りんごが宙から地面へ一直線に落ちるというアニメの場合、原画で最初と最後の画を描いて、間の軌道を動画が割れば良い。しかし、りんごが何かの影響で揺れる、回転する等の動きが必要な場合、新しい動きの基点として原画が必要になってくるわけだ。図の場合の「3コマ中割りあり作画」には12コマ(0.5秒)中2回の動きの基点が存在し、「2コマ中割りあり作画」には12コマ中3回の動きの基点が存在することになる。ただし、1枚の原画に対して中割り1枚で描かれる状況はむしろ稀で、動画を3枚、4枚と入れることの方が多いため、通常の作画では基点の密度は図2よりさらに薄くなる。対して、「フル3コマ」は12コマ中4回の動きへの基点が存在し得るのだ。これによって2コマ作画よりも密度の高い動きを生み出すことが出来る。活気ある若いアニメーターにとってこの手法は非常に魅力的だ。なぜなら動画マンに任せず、動きの全てを自分でイメージ通りに制御するからだ。また、デジタル作画は「フル3コマ」と親和性が高い。自分で動きの全てを描き、PC上で納得のいくまで描き直し、一枚絵としての破綻があったとしても、「動き」として効果が出ていることがわかっていれば、それを恐れずに作画することが出来るからだ。このような姿勢・態度によって、より「動き」に純化した存在としてのWEB系の姿がようやく浮き彫りになってきた。ここで、一つの疑問が湧いてくる。それだけ「動き」にこだわりを持ちながら、なぜ「3コマ」なのかと。そこには日本のアニメが3コマで作ってきた「動き」に対する経験と思想が含まれている。

9.モデルの動きをカメラで撮影し、それをトレースしてアニメーションにする手法。日本では『悪の華』が、TVシリーズで初めて全編この手法を取り入れたことで注目された。
10.厳密な定義を持たず、この言葉を使う者によってかなり違った意味で語られている。例えば「24コマ中24コマ全て作画していること」をフルアニメと呼ぶ場合は多い。この例で多いのが「ディズニーは24コマ中24コマのフルアニメを作っている」といった誤解だ。1930年代以降のディズニーは2コマ、即ち24コマ中12コマの作画をするフルアニメを基調としており、必要な時に1コマ、さらに4コマや5コマの作画も行ってきたのである。この場合近いのは「対象物の動いている部分だけ作画するのがリミテッド、逆に対象物の全てを1から描き起こすのがフルアニメ」という分け方だ。しかし、ここで、注意すべきはディズニーがフルアニメを基調にしていると言っても、動作の主体でない部位が止まっていることはあるし、リミテッド中心の作品にあっても、カットによってはフルアニメ的になる。その上、「フル3コマ」で使われている意味もまた少し違うのが厄介だ。つまり、この言葉自体を定義づけて線引きすることには何の意味もない。
11.動画で原画の間を埋めること。



第6章:3コマ作画と仮現運動
 日本のTVアニメは3コマを中心に作画してきた。当然、動画枚数を減らし、制作費を削減する目的もある。しかし、経済的な自由度も増し、多くの優秀なアニメーターが揃っている現在、尚も3コマが主流となっているのは、3コマ作画でしか得られない動きの効果に期待しているからだ。
 さて、人間が画像の明滅である映像を「動き」として知覚する場合、仮現運動という言葉を根拠として語られてきた。しかし、実は1コマのアニメや、実写のフィルムは仮現運動を持ち出す必要もない。人間は1秒間に50回から60回程の早さの明滅は知覚しないことがわかっている。1秒間24コマの映像は、同じコマを2度映すことで1秒間48回の頻度で明滅するようになっており、事実上その明滅は認識されていない。つまり、人間にとっては実際に動いている物と同じ原理で見えているということだ(吹抜 2013)。しかし、3コマの、毎秒8枚の「動き」ではそうはいかない。ここで登場するのが仮現運動だ。仮現運動とは、静止した画像を次々と見せることでそれが「動き」であると錯覚する現象のことだ。3コマのアニメーションが動いて見えるのはそれに依拠している。また、3コマを認知する仮現運動はLRAM(long-range apparent motion)によって説明される。LRAMとは動きの幅が大きい運動の認知であり(吉村 2013)、近年の研究では、それは脳の中でも記憶を司る箇所で処理されると考えられている。つまり3コマ作画は一見「動き」としては認知されていないが、観る人が記憶を呼び起こして「仮に現れる」イメージを補完することで「動き」として認識されるのだ。1コマや2コマがより具体的にその「動き」を規定するのに対して、3コマは観た人の記憶と感覚に一致することで、よりリアルな「動き」として完成するのである。日本のアニメーターはその理屈を知っていても、いなくても、それに信頼して描いてきた。同様にWEB系も、3コマにこだわる。以下に引用する山下清悟と平川哲夫の対談でその3コマへのこだわりが伺える。

山下:松本憲生さんはコマを落した状態でリアルに見えるように時間に執着する。これは磯光雄さんにも、うつのみやさとるさんにもできない、極北なんです。でも、ふつうの人にこの作画を見せたら、カクカクしてるとか、なめらかに動いてないとか言われるかもしれません。
平川:ふつうは3コマ作画だと遅く見えちゃうのに、ちゃんとスピード感があるのはすごいなぁ。
山下:いまは無音で見てますけど、これに音がつくと「こういうふうに動いてるんだろうな」と勝手に脳が補完して、リアルに見えるんですよ。
平川:動きの中にない、つばぜり合いの音とか、走りの接地音とかね。
山下:3コマ作画が音によって、頭の中で1コマで再生されたときに、アニメがいちばんリアルに近づくと僕は思うんです。
「作画の時間、演出の時間、絶望の時間 山下清悟・平川哲生の対談」より(以下、山下清悟の引用は全てこの対談から)


 山下は3コマ作画によるリアルは音に依拠すると理解しているが、観る人の脳内で補完されることで完成するということに期待している点は同じである。そして松本憲生以降の「フル3コマ」において、さらに「観る人の脳内で補完される」3コマを重視した作画が押し進められた。それがタイムライン系作画だ。



第7章:時間を作画する
 タイムライン系作画とは、WEB系の主に山下清悟を中心に使われている造語である。その意味を山下は「実写映像の時間軸をコマ落しで見たときに、そこにされているであろうポーズを3コマごとに原画にする、という描き方。」と語る。つまり、頭の中でイメージされた映像をコマ落としして再現するというのだ。これは松本憲生らがうつのみや理から継承してきた感覚だ。

山下:うつのみやさとるさんは、かっこ悪いポーズであろうが、実際の人間がそこで動きをためるなら作画でもためる。キャラクターに執着するよりは、時間に執着する。


 従来の作画(タイムラインに対して演算系と呼ばれる)は、その動きがどういった軌道を辿るか、要所のポーズが印象に残るように説明して見せている。必要であれば1、2コマ打ちすることもある。対して、タイムライン系は3コマベタ打ちを徹底し、前章で記した軌道の基点となるポイント(ポーズ)、例えば誰かがジャンプして着地した瞬間であっても飛ばしてしまう。原画とその次の原画で動きが繋がっていないこともある。それは時に、動きがカクついて見え、画面上で何が起こっているのかわからないという状況まで生みかねない。しかし、その時、最早キャラクターの行為は重要でない。代わりに、「動き」の流れている時間こそが主役となるのである。

山下:松本憲生さん、うつのみやさとるさんの作画は「なにを見せたいか」という意味で演出なんですよ。キャラクターではなく、時間を見せる演出。


 アニメはキャラクターが「何をしようとして、どうなった」ということを説明するためにあるのではない。アニメはただ、そこに流れている「動き」を映し出すことで、時間に縛られることでついに、画や記号やキャラクターから解放される。本来の、「アニメーション=静止画の連続が時間によって動きに変えられたもの」という姿を取り戻す。うつのみや理や、磯光雄、そして松本憲生の挑戦してきたこと、それらを受け継ぐWEB系が「動き」こそ、アニメの主役であると示したのだ。
 
第8章:ソーシャル時代の作画と「ざわめき」
 フル3コマによるタイムライン系作画は、「動き」の流れる時間を主体とすることに成功した。ここまでは松本憲生が達成し、WEB系はそれに続いたに過ぎない。では、WEB系の新しさとは何か。それは大きく二つに分けて考えることが出来る。一つ目は4章で記した通り、デジタル作画の特性だ。デジタル作画と従来の作画を比較した時、最大の違いは「動き」の理屈より「感じ」が優先されるということだ。静止画としてどんなに崩れても、動いたときの「感じ」をその場で確かめながら、作画する。それによって、それまで多くのアニメーターが経験や画の巧さで作ってきたパターンから離れて、新たな「動き」が生まれる。二つ目はWEB系の出自とも関係のある、ソーシャル時代の表現をめぐる思想だ。
 2000年代以降、2ちゃんねるや、ブログ、twitter等のソーシャルメディアがアニメに与えた影響は計り知れない。それはアニメの視聴のされ方、内容やキャラクターのあり方、そして作画のあり方にも影響を与えていると言える。先述してきた通り、「作画崩壊」という言葉の圧力によって、アニメがキャラクターの表層を守るために存在するものに変えられようとしているし、WEB系はソーシャルメディアを通じたコミュニケーションから見出されたからだ。
 2000年代初頭、ブログやHPを中心とした、作画語りが行われ始めた。沓名健一のブログ「沓名設備 」(注12)も2001年からだ。そこには作画オタク的アニメ感想日記と、自身の描いたgifアニメが貼られており、それが注目され、掲示板には業界人のコメントが集まりスカウトに至る。これ以降、アニメーター志望者が自身のHPにgifアニメを貼るというスタイルは定着し、また多くの自主制作作品がYouTubeで観られるようになった。その後登場する2ちゃんねるの「作画を語るスレ」の常連がアニメーターになった例も存在する。小嶋慶祐等がそうだ。山下清悟は今でも原画の線を一本引くたびに「作画を語るスレ」を更新しているという。作画オタクのコミュニティから生まれるアニメーターは最近でも居る。例えば、『坂道のアポロン』(2012)や『スペース☆ダンディ』で一躍脚光を浴びたBahi JDはYouTubeの所謂作画MAD(注13)に感化された作画オタクの一人で、彼がまだアマチュアだった頃のコメントは今でも残っている。つまり、WEB系は「作画崩壊」とは別の文脈の「作画を語る」界隈の中から出てきたのだ。それはアニメーターが作画オタクという仲間でもあり、批評されるべき存在でもあるという状況を生み出す。作るものとそれを享受するもの、それがソーシャルメディアのコミュニケーションを通じて、距離を近づけ、あるいは存在を重ねる時、アニメーターもまた、境界線の曖昧な存在となる。それを以て、作画することに対する批評的、自己反省的態度が作画に表れることは不思議ではない。上記二つが合わさった時、表れるものが「ざわめき」だ。
 松本の作画はキャラクターを少なめの線でシンプルにまとめて動かす。その線の取捨選択が非常に巧みで、キャラクターが要所で綺麗な形を保ったまま動く。もちろん、残像や空間の強調等のためにあえて画を崩すことはあるが、あくまでも理屈のわかる崩し方だ。対して、WEB系は明らかにあえてキャラクターをデザインされた通りに描くことを捨てる。それが図3や、図4のようなカットだ。



【図 3】『鉄腕バーディー DECODE:02』7話、山下清悟パート




【図 4】『NARUTO -ナルト- 疾風伝』167(387)話、山下清悟パート
 『鉄腕バーディー DECODE:02』(2009)7話は本稿で紹介したWEB系全員に加えて松本憲生も参加している。この回はヒロインの記憶を描いており、非常に簡略化されたキャラクターと背景が目まぐるしく動き続ける。この簡略化されたキャラクターや、感情を爆発させ崩れた表情に例のごとく「作画崩壊」という声が集まった。極端な簡略は、記憶というディティールの定まらないものを描いてみせる演出であるのは明確だ。そうでなくとも、人間は外部からの物理的影響や、感情によっていくらでも醜くなり得るはずだ。しかし、キャラクターを見ている視聴者はそれを拒絶する。なぜあえて、時には視聴者に拒絶されかねない、商業性とぶつかるような表現に走るのか、りょーちもは自身の制作態度をこのように語る。

自分の作品は「ここにいる」という実感をつくりたいんです。そのためにも自分の目から見えたものを描きたい、商品としての方向性を強調し過剰に表現し過ぎる事で「消えてしまう弱い表現」にやさしさ、あたたかさを感じます。時間を感じる表現や画面外の存在感は大事だと思います。キャラが画面に写っていいない時も何をしているかとか。人物を中心に描くだけでなく、周りからの影響としての自然現象や外部からの力に巻き込まれる不快感や、快感も描きたいと思っています。
「ちものとアニメーション TIMO NOTE ANIMATION 」より


 だからWEB系はキャラクターをそのまま描こうとせず、感情や感覚そのものを表す主体にメタモルフォーゼさせるのだ。図の『NARUTO -ナルト- 疾風伝』(2007-)167(387)話はまさにそれだ。これもりょーちも以外の全員が参加している回だが、特にこのカットは動きの流れとしてもかなり異様で、常に身体中がグラグラと揺らめいて見える。この顔に至っては一見人型のものとは思えないほどメタモルフォーゼしている。このようにWEB系の作画を目にした時、普段のアニメにはない現象を感知することがある。キャラクターの身体を囲っている線が撓み、グラついているように見えるという感覚だ。これこそが、線の中に閉じ込められたキャラクターとしての身体が「動き」そのものに変わることで起こる「ざわめき」だ。そして、それは画面の中に存在する生命としての「ざわめき」なのだ。静止画で観ても何者かわからないほど崩されたそのフォルムが、動き出した時、キャラクターとは違う別の何か、グラグラと揺らめく感情の「動き」そのものとして立ち上がってくる。

山下:商業アニメはまず絵がちゃんとあって、そのイメージを持続したまま、あとはテキトーに動かしてくれればいい、というものじゃないですか。僕や沓名さんは、絵はぜんぜん人間に見えないのに、動いたときにこの上なく人間に見えるというのが楽しいと思ってしまうんです。


 山下は「動き」によって絵が生命に変えられることに期待している。それはアニメーションの原初の喜びに他ならない。最後に「生命の躍動」について語るベルクソンを引用して閉じたいと思う。

まずはじめに私が確認するのは、私は状態から状態へ移りゆくということである。(中略)感覚、感情、意欲、表象、そういうさまざまな様態が私の存在を分有し、これをつぎつぎと色付ける。したがって、私はたえず変化する。(中略)感情といい、表象といい、意欲といい、一瞬ごとに変化しないものはない。アンリ・ベルクソン『創造的進化』松浪信三郎、高橋允昭訳、白水社、1907年より


この地上にある生命は常に変化であり続ける。「ざわめき」は「動き」であり、「時間」であり、「変化」である。しかし、キャラクターは画面上にただ留まっている。状態の変化を恐れる、綺麗な姿でいることを望む者の手によって。WEB系の作画は、線に閉じ込められたキャラクターのままで居させられることへの反目、キャラクターとしか観ていない視聴者への反目として、情動を表す主体として、「動き」そのものという生命に変えられる。その「ざわめき」を単なるノイズとして拒絶してしまう時、最早アニメという体験は要らないのである。アニメがアニメーションである限り、「ざわめき」を受け取れない者のためにアニメは存在しない。

12.http://coosun.fc2web.com/
13.作画が優れたシーンや、特定のアニメーターの担当パートを集めて音楽に合わせた動画。


参考文献・URL
[1]増田弘道『もっとわかるアニメビジネス』、NTT出版、2011年
[2]リチャード・ウィリアムズ『アニメーターズ・サバイバルキット』、グラフィック社、2004年
[3]小黒祐一郎編『アニメスタイル005』、2014年
[4]志賀隆生「生命の躍動-ベルグソン『創造的進化』をめぐって」小坂修平編『思考のレクチュール2. 生命のざわめき』、作品社、1986年
[5]渡邊大輔『イメージの進行形 ソーシャル時代の映画と映像文化』、人文書院、2012年
[6]大塚康夫『作画汗まみれ 改訂最新版』、文藝春秋、2013年
[7]吉村浩一『運動現象のタキソノミー』、ナカニシヤ出版、2006年
[8]吉村浩一「実運動の動画表現」、法政大学心理研究部会主催パネルディスカッション資料、2013年
[9]吹抜敬彦「TVや映画における動画像の見え方〜視知覚信号処理工学の礎〜」、法政大学心理研究部会主催パネルディスカッション資料、2013年
[10]心理研究部会主催パネルディスカッション「アニメーションと仮現運動~この似て非なるもの?~」、2013年
http://www.i.hosei.ac.jp/~yosimura/record20130825.htm)、最終閲覧日2014年10月17日
[11]「作画の時間、演出の時間、絶望の時間:山下清悟・平川哲生の対談」2010年
http://bokuen.net/interviews/yahi.html、)最終閲覧日2014年10月17日
[12] 片渕須直「β運動の岸辺で:第27回 死語である“フルアニメーション”」、2010年
http://style.fm/as/05_column/katabuchi/katabuchi_027.shtml)、最終閲覧日2014年10月17日
[13]WEBアニメスタイル「もっとアニメを観よう:第1回 井上・今石・小黒座談会」2002年
http://style.fm/as/04_watch/watch01_1.shtml)、最終閲覧日2014年10月17日
  

ディズニーで一番好きなヒロインは…

2014年12月12日 07:51
パーディー(パーディタ/Pardita)です。
パーディーとは、『101匹わんちゃん』(1961)の主人公の1匹でダルメシアンのメス。作画はレジェンド、オリー・ジョンストンとフランク・トーマス。動物を描かせたらこの二人に敵う者などない最高のアニメーター。レディやバンビを描いた人達と言えばわかるかも。上品で優雅で知性と色気を感じさせる身のこなし、正確なデッサンで観察に基づいたリアリティと、それでいてアニメ的な楽しさやデフォルメがしっかりと入った素晴らしいア二メート。
声を当てているのはケイト・バウアー。吹き替えは松金よね子さんの方しか知らないけど、両方とも上品で素晴らしい演技。
多分ディズニーで犬と言えば、レディの方が人気あると思うけど、パーディーも可愛いゾー。可愛いというよりは美人系だけど、犬だけど。

以下、パディータの可愛い画像を貼るだけ。
初登場シーン。顎をちょっとあげてお澄ましして歩く。上品で毛艶が良さそう。なでなでしたい。腰のくびれとかすごく良い。抱っこしたい。



おいたかましたポンゴの横をつんとして歩く。


結婚。


気持ち良さそうに日向ぼっこ。ここで気持ち良さそうに深呼吸するとこがすっごいかわいい。


セクシーな目つき。ここの表情の芝居すっげえ良い。


上目遣い。


ペロペロされたい。


クルエラ来襲に弱ってもかわいい。ペロペロしたい。


お母さんでもかわいい。


犬が小首かしげるのって、なんか変な音するなって思ってその音との距離感を確かめるためらしいね。



で、画像収集してて気づいたけど、ここのパーディーって反転させた同じ画使ってるね。画像ではちょっと違うけどタイミングがズレてるだけで、ポンゴもそうかも。え、ディズニーでもそんなことするの!?って思った人へ。
贅沢にお金注ぎ込んで作った『眠れる森の美女』が商業的にはあまり成功しなかったのもあってか、『101匹わんちゃん』からディズニーはゼロックスによって原画をセルにトレースする行程の機械化をしていて、多分それに伴ってこの時期は省力作画な部分も増えてる。この時期の作品は、アニメーターが描いた線がそのままセルに転写されてるから、味のあるスケッチ風の画になってて、特にアンニュイな語りや、ジャジーな雰囲気を含んだ『101匹わんちゃん』はそれがオシャレな効果になってる。
まあそういうこともあって、ディズニーでも探せば使い回しや、止め画の部分、つまり、リミテッド調なところは結構見つかると思う。有名なとこで言うと、『ロビン・フッド』は流用してるとこたくさんあるし、『美女と野獣』ラストのダンスシーンも『眠れる森の美女』の流用なんだよね。

弱っててもかわいい。



煤に汚れててもかわいい。


『101匹わんちゃん』のBDが来年3月に発売らしい。買う。
おわり。  

作画語りてえ

2014年09月08日 22:07
はじめに
アニメを「作画」重点に観ることや、それを語ることが好きなんだけど、なかなか「ここ上手いなあ」と思いつつ、どうして上手いのかってことを具体的に語れない。知識的にも某掲示板の作画スレや、某動画サイトの作画MADで聞きかじったようなものしか持ってないので、これから勉強しますということで、作画を語るために頭を整理する記事を書いてみる。ながーくなるので、適当に画像挟まないとやってらんない。本文と関係なく適当に貼るぞ。
『101匹わんちゃん』より、有史以来最強のアニメーター、ミルト・カールによるロジャー。
『101匹わんちゃん』より、有史以来最強のアニメーター、ミルト・カールによる冒頭のロジャー。

なんで作画語らなきゃいけねーんだ
作画を語りたい理由は、好きだからなんだけど、最近アニメスタイルに載った片渕須直さんの記事が面白かった。アニメーターと心理学の研究者達で研究会を行った際に、2コマの映像と3コマの映像を見せて印象がどう変わるかという実験が行われたらしい。そこで、アニメに携わってない人達は「大して変わらん」と感じたのに対し、アニメーターさん達は「やっぱ3コマだとパラパラしてんなあ」と感じたとのことで、つまり実際に描いてる人達は「見え過ぎ」ているのだ。だから、描けない人と描ける人では、同じ作画でも「映像として見えている結果」が変わってきている可能性が高い。そこで、描けない人からの視点の提供も重要じゃないかと考えた。
アニメーションの動きについての評価は、今のところ実際に描ける人しか説得力を持ってない。描けないとわからない部分の技術が作画にはたくさんあるから。まあ、専門的な技術はみんなそうだけど。もちろん、素人で面白い作画批評をしてる人は今でもたくさんいるんだけど。
そういうのをやってみたいんだ、僕は。
『電脳コイル』OPより、日本で現役最高のアニメーターの一人井上俊之さんのパート。太ももがエロい。
『電脳コイル』OPより、日本で現役最高のアニメーターの一人井上俊之さんのパート。太ももがエロい。
井上俊之さんパートの原撮。
井上俊之さんパートの原撮。


「作画を語る」って何を語ることなのか
アニメを観ることでしか体験出来ないことは何だろう。手数の多い綺麗なキャラクターを観たかったら、イラストレーターさんが描いたものの方が一枚絵の手間ひまはかかってる。声優さんの声や、音楽が物語に乗っていて欲しいならドラマCDもある。そうやって他の媒体で体験出来る要素を削ぎ落としたとき、絵が「動いている」ことこそ、アニメーションだけが持っている唯一の魅力だと断言出来る。つまり、アニメの作画を語ることは、アニメの「動き」を語ることであって欲しい。
もちろん、アニメを観る時に音や様々な要素を無視して良いと思っているわけでもない。アニメの本当の魅力は前述したものを総合した姿にある。
また、作画を語る上で、そのカットの「演出」というものも無視出来ない。脚本の段階で作られるそのシーンまでの状況、キャラクターの心情、絵コンテで指示される画面のおおまかなあり方、レイアウトで映し出されるそのシーンの空間、その上に乗るのが「動き」だからだ。そのカットだけを抜き出して、音も全て止めて、その動きだけを評価することが多分一番純粋な作画を語ることなんだけど、そのカットがなんのために、どんな意図で描かれたのかということに踏み込む批評も必要だと思う。
実際、作画より後のセクションで効果音がつくことを意識して、利用して作画をすることの出来るアニメーターさんも存在する。つまり、作画を語ることはアニメの様々な演出を総合して語ることでもある。うええ、大変だ。
『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』より、作画史のエポックの一つ、冒頭の磯光雄さんパート。

『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』より、作画史のエポックの一つ、冒頭の磯光雄さんパート。


ところで、数年前に「アニメを、動画の枚数とか手数で褒めちゃうと、制作会社によって最初からリソースに差があるからフェアじゃないよね」って話をされたことがある。同じ頃、宣伝で「毎数何万枚!劇場クオリティ!」を謳っていたTVアニメがあって、おそらくそれを意識した発言だったのだろう。
「お金をたくさんかけて作ったアニメです。だからクオリティも高いです。」っていうのは確かに、一理ある。人を、お金をたくさん投入して、一つのセクションにより手間ひまをかければそれだけ見栄えは良くなる。でもそれは、特に日本が独自に作ってきたアニメに流れている創造力を無視している。日本のアニメが挑戦してきた「お金も時間も足りない中で、どうすればカッコよく見えるか」という課題の中で生み出されてきた技を語るためには、「ぬるぬる動くw」とか言って喜んでるようじゃいかんのだ。枚数たくさん入れたら割となんでも「ぬるぬる」しちゃうからだ。
出来るだけリソースに左右されるリッチ感を度外視して、クリエイターの創造力や、技術を語ることが、作画を語るってことだと思ってる。
『NARUTO』より、松本憲生さんパート。物凄いアクションなのに、顔だけ止めて「作画崩壊」とか言われちゃうことも多い。
『NARUTO』より、松本憲生さんパート。物凄いアクションなのに、顔だけ止めて「作画崩壊」とか言われちゃうことも多い。

動きを創造すること
アニメーションの作画は、人間が色んな物理現象や、それを超越したすごいもんを創出すること。人間が「こういう動きが出来たら良いな」と思ってそれを実現するということで言うと、ダンスや、スポーツと共通している部分もあるように感じる。

ある時、運動能力の高い芸能人として有名な武井壮氏がTVで「自分の身体を思っている通りに動かすこと」の大切さを語っていた。それを聞いて僕は真っ先に、マイケル・ジョーダンが自分のプレーについて「創造力」という言葉を使っていたのを思い出す。想像力じゃなくて”creativity”の方だったはず。
MJは単純な身体能力は勿論、「自分の思い通りに運動すること」が出来る、意識と身体との一致という点において非常に優れた選手だったと言われている。そして「創造力」はその先、どのように動かしたら何を魅せられるのかということを意識してプレーしているという意味なわけ。
ダンクシュートコンテストでフリースローラインから跳んでダンクするマイケル・ジョーダン。
ダンクシュートコンテストでフリースローラインから跳んでダンクするマイケル・ジョーダン。

記事の最初の方で、アニメを観る価値について「動きだ」って言ったけど、スポーツを見る価値も僕はそこだと思う。すげージャンプだ!カッコイイダンクだ!綺麗なフォームだ!っていう、人間がこんな物理現象を創出出来るんだっていう感動。
勿論、勝敗のメークドラマもあるけど、前提知識無しに、その瞬間だけ切り取っても美しいプレーをMJはたくさん魅せてきた。だからMJのブルズでの最後の試合は"Last Dance"って呼ばれてる。MJの魅力は人間の身体を美しくカッコよく動かしてみせる”ダンス”だってわけ。それはもう一人のMJも同じだね。

話はちょっと変わるけど、声優のモモーイが「プロ野球選手とかを呼び捨てにすることは、アニメの主人公を呼び捨てにすることに近い」というようなことを昔言っていて、納得した。自然と、スポーツ選手を自分の出来ないすごいことをやってのける別世界の人として観てるのかもしれない。

と、こんなことを考えたのも、当の武井氏が「スポーツの価値は大会や結果じゃなく選手の毎日にある」という、ある種裏側のドラマ、熱闘甲子園的なことを言っていたので、もっと原始的な快感があるはずだと思ったのが始まり。選手が走ってる、カッコイイ、その瞬間でしょ。まあ、本人も高いレベルでスポーツ経験してきたからこそ思うところがあったんだろうとは思う。当然僕も選手のそれまでの努力を含めての感動があることは共感出来るんだけど。

で、話は戻り、すごい「動き」を見るという体験は、アニメ以前の問題で、人間が欲している快感の一つなんだ。ましてや、アニメは「動き」を人間が白紙から作り上げるもの。動きに関して、最も創造的な媒体かもしれない。こういうタイミングでこんな動きをさせようっていう創造性と、実際にそれを描くことの出来る能力。その結実を観て僕は、人間が描く絵がこんな動きを作り出すことが出来るんだって気持ち良くなれる。
それをどうにかこうにか言葉にしてやりたい。というのが当面の目標になります。
作画語りてえ。
旧劇場版『新世紀エヴァンゲリオン』より、弐号機対量産機の本田雄さんパート。
旧劇場版『新世紀エヴァンゲリオン』より、弐号機対量産機の本田雄さんパート。

画像容量の都合上あんまり大きいのが貼れなくて残念。
  

レンタルでアニメ映画見る1:ケモアニメ編

2014年04月07日 00:29
最近20本ほどアニメ映画を借りてみたので、適当に感想を書く。
初見の作品やら幼いころに見たっきりのものやら色々見たけど、どれも新鮮な発見はあった。
『二ムの秘密』


ディズニー出身のドン・ブルース監督によるディズニーっぽいファンタジー。今回初視聴。
おかあさんが病気の息子のために助けを求めて奔走しているうちに、<人間に改造されて知能を持った大ネズミ達の内輪もめ>にも巻き込まれていくという、すごそうなそうでもないようなストーリー。結局おかあさんの勇気パワーで大きな魔法が起こり万事解決っていうおかあさん一人で良かったんじゃないかな感ある上に、突っ込みどころもちょくちょくあるので素晴らしい!感動!とはならなかった。けど、映像自体がゴージャスだからなんだか壮大に見えてしまう。
あと、とにかくおかあさんネズミがかわいい、っていうか色っぽい。吹き替えの上田みゆきさんの演技も上品でとてもマッチしてる。
カラスが奥さんにちょっと気があってちょっかい出してるんだけど、それを軽くあしらったり、時にはシナを作って利用したりと、おしとやかに見えて意外とあざとい。


おかあさんが子どものためにーっていうまっすぐというか視野が狭いというか、頑張り方がおおかみこどもと似てないこともない。

『プリンセスと魔法のキス』


結構度々見直してる作品。
カエルティアナかわいいよカエルティアナ。むしろカエルの方が好きまである。


いや、ケモナーじゃないけどね。
近年のディズニーではけっこう好きな作品。音楽が良い。ジャズ発祥の地、ニューオリンズを舞台にホタルやワニまでスウィングするミュージカルアニメ。
僕はアーリージャズが好きなので、この作品は何回見ても楽しい。音楽はトイストーリーでおなじみのランディー・ニューマン。トイストーリーのテーマ曲、"You've got a fiend in me"は僕も弾き語りしてみたことある。
個人的に気に入っているのはヴィランのドクター・ファシリエ。歌も良いし、サイケな魔術の演出も影の見せ方もオシャレでカッコイイ。



『ビアンカの大冒険』


幼い頃はよく『101匹わんちゃん』のVHSを繰り返し見ていた。
その中に『ビアンカの大冒険』の宣伝が入っていたという記憶があって、そういえばまだ見たことないなと思い今回初視聴。
2作目ゴールデン・イーグルと合わせてみてみたらば、宣伝が入ってたのは2作目の方と判明。
残念ながらウォルト死後の低迷期のディズニー作品で本国でもあまり有名じゃないらしいね。

ネズミたちによるレスキュー協会というものが存在して、人間の与り知らぬところで世の助けを求める人を救い出していると言う設定。
この辺の見せ方が流石ディズニーで、ワクワクするギミックがたくさん盛り込まれてる。人間が国連でニューヨークに集まり、その各国代表のカバンの中から、表れる各国代表のネズミたち、人間たちの足下のドアを抜けるとパイプを伝って大きな会議場が顕われる。とか、アホウドリの背中のシートに乗って旅に出る。とか。子どもの冒険心をくすぐるアイデアがディズニーはやっぱり上手いよなあ。

ビアンカかわいいよビアンカ。


眠そうにバーナードに肩を寄せたりやっぱりあざとい。最近のオタク界隈の文脈でいうとビッチっぽい。でもそれが良い。
ちなみにナインオールドメンが全員じゃないにしろ集合した最後の作品で、作画は怒濤の荒めのスケッチっぽい線で動きまくる。
中でもミルト・カールの担当したマダム・メデューサはなんかすごいのはわかるんだけど素人の僕にはどうすごいのかわからなくなってくると言うか、ちょっと見てて疲れるくらい。現役最高峰の日本人アニメーター井上俊之さん曰く、上手過ぎて浮いてるとのこと。
北久保監督もやり過ぎとtwitter上でコメントしていた。北久保監督曰くディズニーは『101匹わんちゃん』か『ビアンカの大冒険』の2択なんだそうだ。あれ、うつのみや理さんは『シンデレラ』って言ってたけど…
まあ、とにかく2作目のゴールデン・イーグルではすっかりディズニーの中でもエース級になっていたグレン・キーンの出世作でもあり、ディズニー作画の中でも記念碑的作品なんだろう。



『ビアンカの大冒険 ゴールデン・イーグルを救え!』


ビアンカかわいいよビアンカ。


ほっぺが桃色に染まってより色っぽくなり、やっぱりあざとい。

さて、僕の個人的な感想を言えば、この2作目ゴールデン・イーグルの方がすごかった。というかこんなすごいアニメあんまり見たことない。
なにより、グレン・キーンによるマラフーテの迫力。羽の柔らかさ、大きな体をしっかりと支える骨格、羽ばたくシーンのアングル、レイアウト、見ていてめちゃくちゃ気持ち良い。
オーストラリアの大自然を舞台にダイナミックな立体的動きが随所に。ライオンキングのオープニングに感動した人なら絶対にすごさがわかる。



『スペースジャム』


今回見た中で一番しょうもないかもしれない作品。10年以上前に見たっきりだったけど意外と面白かった。
バッグス・バニーとマイケル・ジョーダンの夢の共演。

お世辞にも名作とは言い難い。なにしろただのエアジョーダン宣伝映画だからね。ちなみに僕はバスケ部の頃、エアジョーダン1の赤黒カラー(桜木花道のと同じ)を履いてたことがあるぞ。
まあギャグは寒いし、ジョーダンの演技は棒だし、子供騙し映画な感は拭えないけど、エンタメしてた。アニメーションはすごかったし。

やたらとセクシーな新キャラローラ・バニーたん。




ほんまアメさんのアニメは罪深いでえ。

今回の新鮮な発見:僕はケモナーじゃないけど、アニメのキャラ化した動物って萌えるよなって。  

『寫眞館』『陽なたのアオシグレ』見てきた。

2014年02月28日 23:40
旧立誠小学校にて『寫眞館』『陽なたのアオシグレ』見てきた。
http://risseicinema.com/movies/2663
「寫眞館」「陽なたのアオシグレ」劇場予告編 / 全国順次ロードショー: http://youtu.be/o-bhtuM8a6s

『寫眞館』はなかむらたかし監督。
最近のなかむらたかし監督は『ファンタジックチルドレン』『パルムの樹』『とつぜん!ネコの国 バニパルウィット』の監督で、絵本風にデフォルメされたキャラクターを枚数多めに動かすのが特徴な気がする。でも今回も『AKIRA』の作画監督って紹介されてたし、『ロボットカーニバル 』『迷宮物語』『未来警察ウラシマン』『幻魔大戦 』みたいな80年代SFアニメ(それも大友克洋さん周辺の)のリアル系作画の印象が残ってるのかも。
今回はデッサン風にわざと線の走りを残して絵本やベデみたいな雰囲気。デフォルメの効いたキャラクターも相まってニコラ・ド・クレシーとシルヴァン・ショメコンビの作品みたいな味わいだった。

『フミコの告白』の石田祐康監督の初劇場作品『陽なたのアオシグレ』
「フミコの告白」Fumiko's Confession: http://youtu.be/0QqT1P4VO30

『フミコの告白』と同様、思春期の妄想爆発な作品。猛スピードで駆け抜けていって何もかもぶっ飛ぶというすごく気持ちのいいアニメーションだった。ひたすら快感。
序盤のあざといラブコメ風のシーンはどうかと思ったけど。後半はとにかくアトラクション。
色合いも爽やかで、光の使い方も上手いし、すごい物量なのに画面がごちゃごちゃしないレイアウトも非常に良かった。大きな画面で何度でも見たい。
アオリで大げさなパースで人が奥から飛んでくるのとか『フミコの告白』と似たようなカットもあって、こういうのが好きなのかーとちょっとわかってきたかも。

黒板に石田監督からのメッセージ




作画オタクにとっては伝説の存在、なかむらたかし監督の生原画(?)すげえ



石田監督のサイン入りポスター



イメージボードなど



絵コンテ



コミュニケーションノートに石田監督の絵とメッセージ



展示も充実していてとても満足。
どうでもいいことだけど、一人ないし二人の人生を時代毎にとんとんと追っていく『寫眞館』と、告白するために妄想と現実を交錯させながら走る『陽なたのアオシグレ』って合わせると『千年女優』になる気がする。  

井上俊之原画集

2014年01月22日 21:02
2013年に放送されたアニメのハイライトを決めるとしたら『有頂天家族』第3話は是非入れたい。その理由はもちろん日本のトップアニメーターの一人、井上俊之氏が参加して素晴らしい作画を披露しているから。異界との狭間のようなノスタルジックな雰囲気に説得力を持たせ、弁天様の妖しい美しさを引き立てた画力はやっぱり「カリスマ」と呼ばれるだけはある(本人はあまり嬉しくないらしいけど)。
普段は原画に集中するために引き受けることが少ない作画監督も担当して全体の質を高めていた。
そんな井上さん担当パートを集めた『井上俊之 有頂天家族 原画集』が先日発売された。
作品全体の原画集や、あるいはクリエイター単体の「画集」はめずらしくないけど、アニメーター一人の担当パートを集めた公式原画集(コミケ等のアニメーター本を除く)っていうのは、それだけでもちょっと特殊な一品じゃないかと思う。
その中身もそれまでの原画集とはひと味違う。ファンアイテムとしての機能を越えて、作画を、アニメーターの仕事を勉強するための原画集になっている。なにしろ公式で「ベテランアニメーターによる、アニメーターの為の原画集!初級・中級・上級にわかれ、どのように作画されているかを詳細に見ることが出来ます。(中略)アニメーターの方にも、今からアニメーターを目指す方にも、そして勿論TVアニメ「有頂天家族」をご視聴頂いた方にもオススメなそんな原画集です!」と紹介されているぐらいで。

その濃密な内容をちょっと紹介したい。
井上さんが担当した3話と12話の原画がもちろん掲載されていて、それが全三巻に渡り厚さもこんだけある。


1ページ毎に原画が掲載されていて、ページをパラパラとめくると(動画が入っていないにしろ)そのカットを実際のアニメのように見ることが出来るようになっている。ページを無駄にしないために反対方向からもパラパラ出来るようになってる。弁天様美しいんじゃー。

原画の前には絵コンテと井上さんの解説が。

クリックすると大きなサイズで見れます。

一応ガタガタのgif動画だけど、こんな↓感じ。
http://www.bannerkoubou.com/photosharing/v17139


付録としてタイムシートがついているというのもこの原画集がアニメーター用で専門的な内容だということを特徴づけている。というか、これは業界初なのでは?

この通り本当にただのタイムシート。タイムシートがわからない人は、原画マンが記すそのカットをどうするか指示した標とでも思えば良いんじゃないかと。


そんでやはり特筆すべきは井上さんと、吉原監督による解説DVDで、全カットを演出意図や技術的な話まで合計3時間以上語ってくれている。これがもう、とても勉強になる。3巻合計9000円したけど皆に見せて回りたいくらい。
YouTubeにそれぞれ1カットずつサンプルが上がっているので紹介しておきますよ。
井上俊之 有頂天家族原画集 初級編サンプル: http://youtu.be/jrH6s9OIx5g
井上俊之 有頂天家族原画集 中級編サンプル: http://youtu.be/YK00iq3yuEg
井上俊之 有頂天家族原画集 上級編サンプル: http://youtu.be/8EFYQVT1K4w

原画の間を描く動画さんの技術的な問題や、手間ひまを計算に入れて原画を描いているという、当たり前のようでいて素人には気づきにくい視点、もっと大げさな動きにしても良かったなあなんていう、反省なんかも隠さず話してくれていて非常にありがたい。

僕が特に感動してしまったのは、弁天様が矢三郎の頬を扇子でなでた後に自分の頬をぺちぺちするカット。

ぺちぺちは絵コンテの段階では指示されていなかったけど、原画の時点で井上さんが入れたアレンジだったということ。

3話の中でも繰り返しリピートしたお気に入りのシーンで、弁天様の絶妙な愛情が見えて萌える。
「矢三郎の頬に触れた扇子で、自分の頬にも触れることで愛情を表現したかった」とのことで、トップアニメーターがただ上手な絵を描いているんじゃなく、演出にも一役買っていることがわかる名シーンだった。

日本最高峰と言っても過言ではないアニメーターが何を考えて描いているのか、原画を描く時に必要な様々な配慮、技術について語られているこの原画集は、(アニメーターにとって役立つ物かどうかは素人の僕には判断出来ないけど)アニメーションについて研究したい全ての人に役立つと思う。
少なくとも作オタ必携の原画集。  

人形使い2.0

2013年12月26日 22:40
人形使いは攻殻機動隊の中でも特殊な存在だと思う。自らをAIではなく、情報の海で発生した生命体と語るそいつは、『攻殻機動隊』における問題意識を顕著に表した存在と言えるんじゃないか。

さて、押井守の劇場版のリニューアル版2.0において、最も目立つ変更点は人形使いの声優が榊原良子さんに変更されたことだと思う。最も目立つというのは、この変更に批判も多かったからで。批判点をまとめるならこうだろう。
①慣れ親しんだ声優から変わって違和感がある。
②女性型擬体と男性声のギャップこそ魅力であった。あるいはギャップこそ人形使いを捉える、ある種の本質に違いなかった。
③少佐と人形使いとの融合は一種の恋愛であったはずだから、女性に変わると矛盾が生じる。

ちなみに、このブログではあまり語ってこなかったけど、僕は榊原良子さんの大ファンなので、今回はこれらに対してどう擁護するかという記事に他ならないよ。

【①慣れ親しんだ声優から変わって違和感がある。】
これはどうしようもないね。いきなり敗北宣言だけど、これはどっちが好きかという問題なので。ただ、家弓家正さんのほうが聞き慣れているからといってリニューアル版を最初から捨てるのももったいない。押井守が最も信頼していると語る榊原良子さんの声の良さ、力量を信じて欲しいとは思う。おどろおどろしく、神々しくもあり、艶やかな演技は素晴らしいよ。慣れるだけなら、3回見れば十分だと思う。

【②女性型擬体と男性声のギャップこそ魅力であった。あるいはギャップこそ人形使いを捉える、ある種の本質に違いなかった。】
ギャップが魅力っていうのはわかるとして、ギャップがある種の本質っていうのはどういうことかいうと。
まず、声がどこから出ているのかと考えた時に、女性型擬体を通しているなら、その喉から発せられる声はその擬体の持つ声である。と考えるのが妥当だろうと。
ところが、男性の声が聞こえているということは、人形使いが擬体、もっと言えば身体に依存しない存在であると。新たな生命体としての可能性が浮き彫りになると。これが女性擬体から男性の声が出る人形使いの魅力であり本質じゃないかっていう。

ここで、劇中で声がどんな風に描写されているか確認しておこう。
人形使いが初めて喋るところ。

擬体はあるけど、口が動いていない。スピーカーを通したようなノイズの混じった音が室内に響き渡っている。
擬体の口が動き、肉声(?)に変わる。


それから、ラストのコドモトコ。

坂本真綾さん(擬体)の声から田中敦子さん(少佐)の声に変わる。


描写から見るに声はそれぞれのゴーストが持つ固有の音ということで良いんだと思う。まあ攻殻世界では脳で直接連絡しあってるから、自明のことかもしれないけど。

要するに男性の声を持つ人形使いは男性で、女性の擬体に入っても身体に依存しない存在として描かれたというところまでが95年版『攻殻機動隊』。

ということで、榊原良子さんに変更したことで、人形使いの本質を示すことに成功しているという擁護をしなきゃいけない。
③と合わせてまとめに入る。

【③少佐と人形使いとの融合は一種の恋愛であったはずだから、女性に変わると矛盾が生じる。】
まず、これは矛盾ではないと思う。なぜなら、少佐はレズセックス好きだから(原作より)。まあ恋愛という意味では知らんけどね。

と、冗談はおいといて。
原作で少佐は人形使いを「彼」と呼んでいる。便宜的にか、接触して受ける情報から男性性を感じ取ったのかはわからないけど。「プロポーズを受けるわ」とも言ってる。素直に読み取るなら、男性だと思うのは当然だし、1995年版はその通りに作ったのだと思う。押井守も恋愛として描いたようだし。
ここで、2.0の変更が意味を持ってくる。わざわざ、戯れだけで変えるだろうかということ。

人形使いが男性か、女性かってのは大事な問題じゃないんじゃないかな。
草薙素子と人形使いの「融合」は性交じゃなく、量子化された人類の新しい生殖を示している。ネットワークそのもの、情報、知能との融合。そのときもはや性別は関係ない。
「融合」の後、『イノセンス』では少佐らしき存在が人形に移って登場する。原作2巻では様々に変種を生み出していった。(原作1巻ラストの少佐はマイケル・ジャクソンみたいな男性擬体に入ってる)
まあ簡単にいえばどっちにせよネットに散らばる生命体になったということで。

要するに人形使いは身体に依存しない存在で、さらに観測されるまで男女どちらでもある。どちらの可能性も持っている量子的存在ということが付け加えて示されたのが2.0なんだと。二作品合わせて見ることで人形使いの本質が示されているんじゃないかなって。だから榊原良子さんが声を当てたことにはちゃんと意味がある。
と思う。

まあ、押井守自身は冗談めかしく、女性同士の融合がエロいと思って、とか榊原良子さんの声が好きだからなんて言ってるようだけど。(ソースは誰かのブログ)

ネットは広大だわ……

  

今 敏オタの過ごすクリスマス

2013年12月25日 23:56
額にいれて居間に飾っている今さんの絵のローテーション、今年もこの季節がやってきたよ。『東京ゴッドファーザーズ』に変えた。


今 敏オタの過ごすとか言ったけれども、今日特別に『東京ゴッドファーザーズ』観るわけでもなく、ごく普通に過ごしたんだけどね。

ところで、『今 敏 画集 KON'S WORKS 1982-2010』が届いた。やったー。

実は一昨年の画集BOXの中身が本になっただけなんじゃないかと予想していて、とりあえず持っておこうっていうコレクターアイテムぐらいにしか思ってなかった。まあ概ねそんな感じなんだけど。
ところが、オハヨウの絵コンテや、武蔵美時代の作品、未公開作品の資料もあってこれは嬉しい誤算。大判で画質も良くて満足。
武蔵美時代の作品は展示があった時に観にいったから、初見ではないんだけど、大きくて綺麗な画質で手元に残せる形になるとは思っても見なかった。でも、今さん関連の絵はいよいよ出尽くしてしまった感あるかも?『夢みる機械』さえ公開されればなあ…

ちなみに父親に誕生日プレゼントにこれ買ってくれやって頼んで、アマゾンから送られてきた。まあ良いクリスマスプレゼントになったかな。
メリークリスマスギリギリセーフ  

『かぐや姫の物語』

2013年11月24日 00:45
高畑勲作品が好きなんです。
ホルスに始まり、ハイジもアンもチエも山田くんもパンコパも、他の色々もみんな好き。
なぜ好きなのかって考えると、「家族」をしっかりと描けているからじゃないかなと思う。家族ものに弱いんだよね。お母さんが息子を大事に思ってるような描写を見るだけでツーンとくる。

「家族」は生活の中心であり、最も基本的な存在理由で、人間の生命の美しさはやっぱりそこに表れる。
だから、「家族」を描けるということは「生きる」を描けるということだと思う。その「生きる」力強さに僕は感動するんだろう。

宮崎駿監督の最新作『風立ちぬ』もキャッチコピーが「生きねば。」だったのは偶然じゃない。
宮崎監督にしろ、高畑監督にしろ描く人物達は全力で走り回り、大きな口を開けて笑う(『風立ちぬ』の描き方はちょっと違うかもしれないけど)。
彼らは生きているものを描けるからこそ偉大な映像作家なんだと思う。

『かぐや姫の物語』は「かぐや姫がなぜ地上にやってきたのか」というコンセプトで作られた。かぐや姫を感情移入の出来る一人の人格として描こうという試みだ。そして、かぐや姫が生命を得るために描かれる必要があったのは、「家族」としての営みだった。と思う。
かぐや姫は竹取りの翁、おばあさんに愛されて育った。原作において「この児、養ふほどに、すくすくと大きになりまさる」程度にしか描写されていなかったかぐや姫の幼少期も仔細に描かれ、それはそれは可愛い。
変な話しが、『かぐや姫の物語』こそ日本の物語史上初めて「かぐや姫」という人が生まれた瞬間なのではないかな。
高畑監督だからこそ、かぐや姫に命を吹き込むことが可能だったのだと思う。
高畑監督の描くかぐや姫は走り回り、草木、虫、鳥に触れた。生きようとしていた。

しかし、物語はかぐや姫に命が宿ったところでは終わらない。かぐや姫は段々それが出来なくなっていき、ラストは知っての通り月に帰らなければならない。かぐや姫は生きたかったけれど、生きることは不可能なのだと知る。それが「罰」ということなんだろう。
(キャッチコピーの「姫の犯した罪と罰」についてはパンフレットに高畑監督がズバリ答えを書いているのでそちらを参照。)
日本最古の物語である『竹取物語』がリリカルに、かぐや姫がより美しく生き生きとして描かれた『かぐや姫の物語』は、日本のフィクション史上に残る記念碑的作品だ。

もう一つ、映像としての完成度について。これはもうひたすら感動。古くから使われる楽しいアニメーションでもあり、かつて誰もやったことのない描き方への挑戦でもあった。
日本人が示すべき美しさを存分にアニメーションにした極致であり、ゴールであり、最高到達点であり、完成形だった。作画オタとして今まで見てきたアニメの中でも最高傑作の一つだと思う。

歴史的傑作を目の当たりに出来たことを幸福に思います。  

一ヶ月前に『SHORT PEACE』観たよ。思い出したよ。

2013年08月23日 18:14
大友克洋最新作『SHORT PEACE』観てきましたよっと。観たの一ヶ月程前なんだけどね…
確か、前の記事書いた日に観に行って、早速感想をブログに書こうと思ったけど、マンガミュージアムのことを書いてなかったから先にそれを書かないとと思い出して、それでは『SHORT PEACE』については明日書こうとか思ってたら一ヶ月経っていましたと。
なんですぐ書かないかな…感想の鮮度も下がっちゃうのにね。感想書く程の作品じゃなかったとかじゃないから。本当に。良かったんだから。
うん、良いアニメ見てきたっていう充実感は確かにあるのですよ。
本当はそれほど期待してなかったのだけど。

カトキハジメが初監督だったり、『火要鎮』が文化庁メディア芸術祭アニメ部門の大賞とったり、話題にはそれなりになってたけど、僕はどうもまだ3DCGのアニメに慣れなくて、観る前はせっかく優秀なスタッフ集まってるんだから手描きでやってくれよーとか思っちゃってたのだ。
2006年の『FREEDOM』とか僕はすごい好きなんだけど、トゥーンレンダリングのまだまだチープな質感にちょっとがっかりしていたから、その印象がまだまだ拭えないでいたのもある。ところが今回の『SHORT PEACE』は予想以上に違和感がなかった。進歩してるじゃないか!素晴らしいネ!
神山監督の009も含めて、日本のアニメでトゥーンレンダリングをつかっていこうって挑戦は続いてるのよね。

思えば99年頃の大友、森本晃司さん、亡くなった今さんの対談でも「僕らはCGを使うのが面白いから使ってるんだ」って話をしてて、そこからずっとCGをアニメーションにうまく取り入れようってずっとやってきたんだね。安くアニメーションを造れるからという消極的な理由じゃなくて(それはそれで良いと思うけれど)、CGを使うことに表現的な面白さを見出せているからこそなんだと思う。今回はその挑戦がかなり実を結んでいるのを感じました。感服。

肝心の中身の話。ちなみに共通テーマは「日本」なんだってサ。
まず森本監督担当のOPは、ひぐらしの鳴く幻想的な雰囲気の鳥居と少女というモチーフ。もうこれは僕が大好きな奴ですよ。出だしの数秒で気持ちよくなれた。何度でも観たい。

続く森田監督の『九十九』、これはCGで日本の布の美しさを表現しようってやつですかね。人物のCGは若干滑ってたし、背景と噛み合ってない感じを受けたけど全体的に暖かい印象を受けるCGだった。

そんで大友監督の『火要鎮』、すげえ!こんなに綺麗な!すげえ!日本の絵巻物が動いてるよ!大友ってやっぱすげえな!
と言う他ない。本当にすごかった。
CGを使ってる部分が一部のモブと、人の髪の毛っていうのが面白い。アニメーションキャラクターにCGのカツラをかぶせてるみたいな感じかな。

安藤監督『GAMBO』、なかなかの衝撃作だった。えぐい。鬼が村を襲って山の神様が退治するっていう昔話を現実的にして、残酷さから目をそらさないで描くっていうところがポイントだったかなと思う。CGも独特の荒い線を使ってアニメっぽく見せてた。

カトキ初監督『武器よさらば』、戦闘シーンが大友の原作マンガより詳細に描かれていた以外はほぼ原作通りの展開だった。カッコイイエンターテイメント作品になってたけど、まあなんか無難な印象。これのどこが「日本」なんだ?と思って見てたら最後の遠景で申し訳程度に遠くそびえる富士山に笑ってしまった。

こんな感じ。CGアニメーション技術の先に行こうと、向上させようとしているのが感じられたし、進化を実感出来てよかった。
『風立ちぬ』のような一般の人々にも観てもらえる名作が公開されている裏では、こういうアニメを進化させようという挑戦があるものなのですよ。多分。  

ビューティフル•ドリーマーよりもオンリー•ユーが優れているワケ

2013年07月18日 00:03
アニメファンの間で、うる星やつらBDが好きと言っておけば、わかっていると思われる風潮。わかってない。全然わかってないわ。
オンリー・ユーの方が明らかに名作。その根拠を今回は述べようと思う。



一つ、エルたそ(CV:榊原良子さん)

以上。

やっぱり押井守って偉大だわ。榊原良子さんを気に入って、よく起用したということはもっと評価されるべきなんですよ。
押井が監督やった、世界初のOVA『ダロス』にだって出てンだから 。あんま面白くはなかったけど。
ヒッチコックにとってのグレース・ケリー、押井守にとっての榊原良子さん。やっぱ優秀な監督は優秀な女優を嗅ぎ分ける能力も高いのですよ。
部屋にオンリー・ユーのポスター貼りました。
  

「七人の侍」的時代劇と「もののけ姫」

2013年03月25日 23:52
『何が映画か「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』を読んで思ったことを。
 
 「七人の侍」はハリウッド的ストーリー構成をとっていると言われることが多い。これは安定した状況から変化が起こり、それに対するなんらかの解決がなされるという点で語られたことであるが、実際、ジョージ・ルーカス、スティーヴン・スピルバーグなど錚々たるエンターテイメント監督達が口々にこの作品の影響を語ることからもハリウッド的快楽、分かりやすさを持っていることが伺える。当然のことながら、黒澤明が映画に与えた影響はハリウッドだけではない。日本のアニメーション作家達も黒澤明作品を見て映像制作のなんたるかを学んだという。分かりやすい例で言えば、出崎統監督の「ガンバの冒険」がある。このアニメは主人公をネズミにしたリメイクとも言える作品となっている。このような明確な影響だけでなく、映像制作の基礎、方法論が受け継がれていることを見ることが出来る。本文ではそんな中で、特に影響を受け、また同じように世界にその名を知らしめ、続く作家達に影響を与え続けている宮崎駿を見ていこうと思う。また、「七人の侍」と対応させて「もののけ姫」を時代劇の傑作と捉えて考えていきたい。

宮崎駿と黒澤明
 黒澤明が映像を作る多くの者達にリスペクトされていることは疑い無いが、今回取り上げる宮崎駿も「七人の侍」が一番好きな映画だと語る一人である。また、真意は定かではないが、黒澤明も宮崎駿の作品が好きだと語っていた。日本を代表する映画監督が互いに意識をしているというのは興味深い話である。

黒沢明、宮崎駿の対談を読んで
 さて、『何が映画か「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』を読むと、早速馬や武具へのこだわりの話になる。武具はこの時代ならこうではないですかと宮崎が問えば、実はこれで正しいのだと黒沢が答える。映画の細かい部分にこだわることが彼らの楽しみなのだ。黒沢は撮影した戦闘描写や武士のあり方が正しいかどうか専門家達に聞いて回ったというエピソードもある。宮崎作品も背景の美しさや、人物の服装までこだわった映画を幾つも生み出している。宮崎駿の「雑草ノート」「妄想ノート」を読むと、ミリタリー中心ではあるが、その細かなオブジェクトへの気配りを知ることが出来る。こういったこだわりが彼らの巨匠たる所以であろう。

ディティール、リアリティへのこだわりと、目指すものの違い  
 さて、黒澤明と、宮崎駿は細かい部分へのこだわりにおいて、共通点を見いだすことが出来たが、異なる点もある。
 一般的な映像作品に置ける百姓達は、哀れな被害者で純朴な存在として描かれることが多い。しかし、菊千代が「嘘をつく 何でもごまかす」「けちんぼで ずるくて 泣き虫で 意地悪で間抜けで 人殺しだあ!」と叫んだように、「七人の侍」では我々の牧歌的な百姓への憧れをぶち壊した真の姿が描かれている。黒澤明が幻想を壊す程の徹底したリアルな世界を描いたのに対して、「もののけ姫」に登場する人々は必ずしもそのような醜い姿を見せるわけではない。逞しく、明るい、気持ちのいい人間達である。また作品全体に自然への幻想的な憧れも感じる。人間描写に置いて求めるリアリティに違いがあることがわかる。
 また、黒澤明は「テーマなんてものはなくたって、当然作品というものには作者の人生観が出て来てしまうものなんだな。」と語ったように、必ずしも作品にテーマを持たず、自身の中の思いは明確にしようとせずとも作る中に表れると考えた。「七人の侍」を見ると、ハリウッド的、ドラマティックであると同時に、客観的に時代の生活、事実を捉えたドキュメンタリーのようにも見える。単純なハッピーエンドに終わらないことからもそれが言えるだろう。ここで、時代の一場面を切り取ったかのような時代劇を「七人の侍」的時代劇と呼ぶことにする。それに対し「もののけ姫」含む宮崎駿作品は自然信仰や神秘主義、若者へのメッセージなど目的を持って作られていることが多い。

新時代の映画へ
 「七人の侍」が時代劇の最高傑作の一つであることは、多くの人が認めるところである。同時に1954年という早い段階でそのような作品が生まれてしまったことは、その後の作品にある種の縛りを与えてしまうことになる。作品が「七人の侍」的であればそれを越えていくのは難しい。そして、「七人の侍」の道から外れてしまえば時代劇映画製作のいろはを知らないやつだと言われかねない。それについて、宮崎駿はこう語っている。「黒沢監督は『七人の侍』を作ったことによって、日本の映画界に一つの基準を作ったと僕は思っています。(中略)その後、多くの人間達が映画を作るときに縛ってきた。(中略)我々に課せられているのは、「なるほど違う時代劇だ」という映画を果たして作れるかどうかということです。」この発言から4年後、宮崎駿は新作を発表する。それこそが、その縛りから逃れることを達成した「もののけ姫」であった。宮崎駿はこのアニメーションによって実写映画ではなし得ない表現を手に入れたのである。「もののけ姫」は正確には時代劇ではないかも知れない。しかし、劇中で見られる弓を射る姿、時代考証と人々の行動原理など細部のこだわりが見られるこの作品は方法論から見れば「七人の侍」的時代劇なのである。しかし、それだけではない。この作品は同時にファンタジーであり、人間の生きることや自然の神秘性をテーマとして語るのである。これこそ、「なるほど違う時代劇だ」と言える黒澤明の縛りから解き放たれた新しい映画の一歩ではないだろうか。
 今日、宮崎駿という人が残した功績が人々を縛っているように見える、ポスト宮崎駿、ポストジブリなどという言葉を目にすることもある。「なるほど違うアニメだ」と言われる作品を作るには必ずしも既存の方法論から逸脱する必要は無い。むしろ宮崎駿のやったように、既存の方法論を追求していく中に、新しい映画の一歩が見えるかもしれないのである。

【参考文献】
[1]『何が映画か「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』黒澤明、宮崎駿、徳間書店、1993年
[2]『大系 黒澤明 第2巻』黒澤明、浜野保樹、講談社、2009年
  
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ハルタ

2013年02月16日 18:52
エンターブレイン発行の漫画誌「Fellows!」からリニューアルされた「ハルタvol.1」を購入。
fellowsは掲載作品のコミック以外の広告を紙面から一切排除してひたすら100%漫画誌という挑戦をしていた。掲載作品はどんどん増え、分厚くなり、あげくの果てに隔月刊にも関わらず週間で分冊して出すこともあった程、漫画を掲載するということに現代の紙媒体衰退の中で挑んできた雑誌で(分冊は正直買い辛かったけど)非常に尊敬している。ハルタへリニューアルするにあたって刊行ペースが隔月から年10冊に変わったのは掲載作品がそれだけ多いということだろうか。

中身は今までfellowsで続いていた連載や作家の読み切りなど、fellowsから特に質落ちしているということは無かった。というよりほとんどデザインなども変わってないため、刊行ペースを上げて、それに伴って名前も変えたということだろう。もっと色んな理由があるならごめんなさい。とりあえず純粋な漫画誌としての挑戦には期待しているので是非確固たる地位を築いて欲しい。

話題は変わって今年春日本公開のマイリトルポニーについて。
弟が異常にハマっていたので僕もシーズン1、2(全52話)を視聴。
ニワカものなのでここで多くは語らないけど、セレスティア様が非常に麗しかったので紹介しておきたい。
大変優秀で聡明で思慮深い方なのだけれど、ちょっとうっかりさんなおかげで、そこが抜き出されてアメリカでは余り人気がないらしい。とりあえず僕は積極的に応援していこうと決めた。多分日本でも人気は出ないだろうけど…


  

アイマス映画化決定

2013年02月11日 22:26
http://www.idolmaster-anime.jp/

アイドルマスターがついに映画化。とうとうここまできたか。
ずっと映画化して欲しいって言ってた平田宏美さんおめでとうございます。

ちょっと前まで、マイナーなゲームを応援しているつもりでいた。こんなに人気がある現状も未だに実感がない。

ゲーセンの隅に置いてあった筐体からニコニコ動画の人気コンテンツに、そしてアニメ化。
まるでアイドルマスターの中のシンデレラストーリーを実現しているかのよう。感慨深いものがある。  

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